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ストップ・メイキング・センス 4Kレストア

ジョナサン・デミの『ストップ・メイキング・センス』については、かつて史上最高の音楽映画に選んだのをはじめ、このブログでもこれまで何度も讃えてきた

ワタシは今50歳だが、この映画をリアルタイムには体験していない。ワタシの故郷の田舎では公開されなかったはずだし、トーキング・ヘッズ自体も、当時ヒット曲の PV をテレビで体験はしていたが、彼らのアルバムを初めてちゃんと聴いたのは、ラストアルバムとなった『Naked』だったりする。

とはいえ、その史上最高の音楽映画が、初公開から40年の時を経て4Kレストア版として再上映されるとなれば、これは体験するしかないわけである。もちろん IMAX シアターでだ。

ストップ・メイキング・センス』はディスクを所有していないにも関わらず10回くらい通しで観ており、今更大画面で観たからといって特に何も感じるところがなかったらどうしようとも正直思っていた。

パブロ・フェロのタイトルバック、何もないステージにデヴィッド・バーンだけ現れてラジカセをリズムボックスにして*1アコギ一本で歌われる "Psycho Killer"、曲とともにステージ上のメンバーが増えていく演出、ライブが進行する背後で黒子さんがステージを設営するという中学生が考えそうなアイデアの具現化、その黒子さんのライトで実に美しくステージ背後に影が映し出される照明演出、それが頂点を極める "Girlfriend Is Better" でのデヴィッド・バーンのビッグスーツ――すべて知っていたものである。細部まで記憶していたつもりだった。それでも、こうやって体験できた感動が確かにあった。

バーニー・ウォーレル、スティーヴ・スケール、アレックス・ウィアーらが加わり、ライブバンドとして円熟期にあった*2トーキング・ヘッズの素晴らしい演奏を前提としながら*3、どの曲もライブのハイライトと言ってよいレベルのライティングやアクトの演出(主にバーンの神経症的なダンス、というかもはや演劇的な振り付けだが、"Genius of Love" のティナ・ウェイマスは本当に素晴らしいよな)がある。すごいよね。

ワタシも過去のエディションをすべて観ているわけでないので間違いだったら申し訳ないが、訳詞の字幕がついたのは今回が初めてだと思う。正直要らんだろと思いながら観ていたが、そのおかげで "Swamp" の歌詞のアレが日本語なのに今更過ぎるが気づいたりもした。

こうして大画面で観れて良かったが、自室のちっこいテレビで観ていた時には気づかなかった音と映像の微妙な不一致に気になるところもあり、そうした意味でバーンの『アメリカン・ユートピア』のほうが映像作品としては優れているのかも、と冷静になると思ったりするが、それは本作の感動を減じるものではない。

本作において、ライブ本編の最後と思われる "Take Me to the River" でも、アンコールの最後と思われる "Crosseyed and Painless" でも、バーンは曲の終盤にさっさと一人ステージを後にする。そのあたりにも彼の人間的なクールさを感じ、後年のクリス・フランツやウェイマスによるバーンの人間性についての評言を思い出したりもした。

エンドロールにハル・アシュビーへの謝辞があるのがなぜか疑問だったが、購入したパンフレットで、本作の編集にアシュビーが発明したシステムを導入したからというのを知った。今度は、2023年版の謝辞にポール・トーマス・アンダーソンの名前があった理由を知りたくなった。

*1:実はラジカセから流れてたわけでないことは承知しています

*2:しかし、メンバー間の意見の相違がツアーに起因すると考えたバーンは、以降のツアーを拒否したままバンドは解散を迎えた

*3:意外に誰も書かないが、本作を観るとギタリストとしてバーンが優れているのが分かる

MetaがAIをオープンソースにする理由をマーク・ザッカーバーグが語る

news.slashdot.org

Meta のマーク・ザッカーバーグが、AI のオープンソース化について語った言葉がなぜか Slashdot に掲載されているので、その部分を訳してみた。

我々が研究や膨大な計算の成果をオープンソースにして、どのように利益を得るのか疑問に思っている人がいるのは承知しています。ここで戦略的なメリットを説明するのが良いのではないかと思った次第です。簡単に言えば、オープンソースにすることが我々のモデルを向上させます。しかも、他のオープンソースのモデルも利用できるので、我々のモデルを製品にするにはまだかなりの労力を要しますので、オープンソースのリーダーなのは利点はあっても、我々の製品の差別化をなくすことにはなりません。もっと具体的に言うと、戦略的なメリットがいくつもあります。

第一に、オープンソースソフトウェアは通常、コミュニティからの継続的なフィードバック、精査、開発によってより安全で計算効率が高くなります。安全性は AI における最重要項目の一つですから、これは大事です。効率性の向上と計算コストの低減もまた、我々を含むすべての人たちに恩恵をもたらします。

第二に、オープンソースソフトウェアは、往々にして業界標準になります。しかも、企業が我々のスタックでビルドするのが標準になれば、新たなイノベーションを我々の製品に統合するのが容易になります。些細なことに思うかもしれませんが、素早く学び、改善できるのは大きな利点です。業界標準であることがそれを可能にするのです。

第三に、オープンソースは開発者や研究者に絶大な人気があります。そして我々も、人々が広く採用されるオープンなシステムに取り組みたいのを分かっています。つまり、オープンソース化は Meta で最も優れた人たちを採用する助けになるわけで、それは新たな技術分野をリードするうえでとても大きなことなのです。繰り返しになりますが、我々は通常、独自のデータを持ち、独自の製品統合を行っているので、Llama というインフラをオープンソースで提供しても、我々の主要な優位性を弱めることにはなりません。これが、我々の長期戦略が一般的なインフラをオープンソースにすることであり、それがこれからも正しいアプローチであり続けると期待する理由です。

うーん、最初の段落の後半がちょっとよく分からなかったな。

かつて Marco Arment は、Facebook の Open Compute Project を評する文章で以下のように書いている。

今回のような大規模な場合――善意の個人による小規模なオープンソースプロジェクトと違い――何かを「オープンにする」のは、ほぼ必ずそれをコモディティー化しようとしている。できるだけ機会を均等化し、他社が持っていたかもしれない競争優位の存在意義をなくすわけだ。

Marco ArmentがFacebookのOpen Compute Projectを斬る(Facebook’s Open Compute Project 日本語訳)

これは Meta の AI のオープンソース化にも当てはまる話だろうか?

ワタシとしては、「オープンソースの失われた10年と「オープンソースAI」の行方」で書いた、何をもって「オープンソース AI」と言えるのかまだ明確になっていないという問題をマーク・ザッカーバーグは承知した上で、都合よく自社のオープンソース化を宣伝しているように思う。これは彼を批判しているのではなく、ビジネスマンとしてうまいなと思うという意味で。

マリアナ・マッツカートの『The Value of Everything』の邦訳『国家の逆襲』が昨年出ていたのか

yamdas.hatenablog.com

調べものをしていて、4年前に紹介したマリアナ・マッツカートの『The Value of Everything』の邦訳が、『国家の逆襲』の邦題で昨年刊行されていたのを知った。

『The Value of Everything』の後に原書が出た『ミッション・エコノミー:国×企業で「新しい資本主義」をつくる時代がやってきた』(asin:4910063196)の訳書が先に出たので、こっちはもう訳書は出ないと思い込んでいた。

今更ではあるが、原書をブログで紹介した本の訳書が出た場合は、やはりブログで紹介するという不文律に従っておく。

カタパルトスープレックスにおける(原書の)書評も参考まで。

となれば、およそ一年前に取り上げた、コンサルタント業界をぶった斬る新刊は、今年末以降に邦訳が出るんでしょうかね。

嘉島唯さんの初の著書『つまらない夜に取り残されそうで』が今月出るぞ!

yamdas.hatenablog.com

3年以上前のエントリだが、そこでワタシは以下のように書いている。

嘉島唯さんは生きのびて、優れた文章を書き続けてほしいし、数年のうちに、来年にでも彼女の本を読めればと願っている。お互い生き残って、数年後でもそうした形で会えればよい。

自らの「呪い」から解放されること、なにより生きのびて書き続けること - YAMDAS現更新履歴

その嘉島唯さんの本を読めることになった。初の著書『つまらない夜に取り残されそうで』が今月出る。

独身男女に贈る「ワンルーム文学」とな。

端的に、以前から嘉島唯さんの文章のファンなので、とても嬉しく思う。ワタシが書いた「数年のうちに」が実現したわけだ。おめでとうございます。

ホラーエンターテイメントを真面目に研究したデイヴィッド・J.スカルが亡くなっていた

www.nytimes.com

デイヴィッド・J.スカル(公式サイトWikipedia)の名前を久しぶり見たなと思ったら、訃報だった。車の事故に巻き込まれて亡くなったとのこと。享年71。

彼の著作は、日本でも90年代後半に次々と邦訳が出た。

この人の名前は……確か、柳下毅一郎さん経由で知ったのかなぁ。ワタシもトッド・ブラウニング伝など、彼の本を図書館だかで読んで興奮したのを覚えている。

こうやってちゃんとした追悼記事を掲載する New York Times はえらいね。

彼はスーザン・ソンタグ、ライオネル・トリリング、R・D・レインの文化論を著書で引用した。しかし、彼の批評は決して堅苦しくはなく、クリーブランドの外れに住んでいた少年時代に初めて出会ったジャンルの個人的なファンダムに根差していた。彼が初めて観た映画の記憶は、テレビで観た『フランケンシュタインと狼男』だった。

「私が育った郊外のブルーカラーの街では、ドン・ジョヴァンニにあまり縁のない人々がドラキュラに影響を受け、フランケンシュタインファウストの替わりだった」とスカル氏は、映画やテレビに登場するマッド・サイエンティストについて研究した著書『マッド・サイエンティストの夢―理性のきしみ』の序文で書いている。

『マッド・サイエンティストの夢―理性のきしみ』について、現実の科学者に対する理解が浅いと批判した科学ライターもいたが、スカルはそうした反応を当然予想していた。この本の序文で、自分の主題は現実世界ではなく、我々の恐怖を反映したポップカルチャーがゆがんだ世界を映し出す鏡であると主張している。

彼の著作、復刊とか電子書籍化とかしないですかね。

シェイン・マガウアンが亡くなる30年以上前、かなりその近くまで来ていた頃の話

nme-jp.com

旧聞に属するが、昨年ザ・ポーグスのシェイン・マガウアンが亡くなった。現代英国でもっとも愛されるクリスマスソング「ニューヨークの夢(Fairytale of New York)」をはじめとする代表曲で知られるが、訃報を受けてアイルランドの大統領が追悼の声明を発表したし、国葬を思わせる葬儀の映像を見て、また後にボビー・ギレスピーニック・ケイヴの真摯な追悼文を読み、いかに彼が愛されていたかをあらためて思い知った。

個人的には、亡くなる少し前に彼の退院のニュース記事に付された画像を見て、これは長くないと覚悟していたので驚きではなかったが、それでも悲しいことに違いない。

open.spotify.com

これも旧聞に属するが、「町山智浩の映画特電」ポッドキャストで『教養としてのパンク・ロック』(asin:4334101534)の著者川崎大助のゲスト回を聞いていて、彼が1988年にポーグスのインタビューのアシスタントをやったとき、シェインはワイングラスを持つ手が震え、インタビュー中に涎たらして寝てしまうズタボロの状態で、「もうこの人は絶対長くない。数年以内に死ぬんじゃないか」と思った話を語っていた。

そのインタビュー記事を読んだ記憶があったので、1989年から2004年まで読者だった rockin' on のバックナンバーを引っ張り出す「ロック問はず語り」をやろうと決めた。問題のインタビュー記事を探したのだが、手元の(雑誌から気になったページを破って持ってきた原始的)アーカイブには、残念ながらそれが掲載された1990年5月号の該当記事のページがなかった。

そこで、1992年1月号(表紙はエリック・クラプトン)に掲載された NME の翻訳記事「ポーグス蘇生への遠い道 ジョー・ストラマー加入の新生ポーグス取材現場に突如現れたボロボロのシェーン」を取り上げたいと思う。これを読めば、当時のポーグス並びにシェイン・マガウアンがどういう状態だったか分かると思う。

記事は、書き出しから不穏である。

 シェーンはそもそもはと言えばこの取材場所にいるはずではなかった――大体、シェーンの穴を一時的に埋めるべく、既にザ・クラッシュのあのジョー・ストラマーが雇われているのだ。この日の二週間前、ポーグスがメディアにばらまいたニュース・レターによればバンドは「本人が健康を著しく害しているため」シェーン・マクゴワンと訣別したということだった。先の日本公演で予定された四回のギグのうち三回もシェーンが姿を現さなかった時に、バンドは訣別を決めたのだという。
 そういう経緯があっただけに、北ロンドンにあるこのリハーサル・スタジオにシェーンが突然姿を現した時、メンバー全員がひどくあわててしまったのも無理はない。(中略)メンバーはうんざりした様子でシェーンを見上げると順々にスタジオを出ていった。

ポーグスの1990年のアルバム『ヘルズ・ディッチ』は、上の引用で名前が出るジョー・ストラマーがプロデュースしているが、その後のツアーでまともに役目を果たさないシェイン・マガウアンが解雇され、バンドはストラマーに助けを求めた。しかし、そのストラマーをフロントマンにした全米ツアーに向けたリハーサルの場にシェインが予告なしに現れてしまう。いきなり修羅場である。

シェインはスタジオで一人ギターを弾き出すも、「とにかく、ひどい音でとても聴いていられるものではない」と記者は書いている。言葉もおぼつかない。バンドがスタジオに戻ってきた頃には、シェインはバーに移るのだが、元々はそこでバンドのインタビューをする予定だったのも変更を余儀なくされる。

当時、ポーグスはひどい状態にあった。

 とにかく、この一年は不幸続きでポーグスの面々全員にとって辛い絶望的な一年だった。バンドのメンバーの恋人が痛ましい死を遂げたということもあったし、今また友達のクルーが一人、こときれようとしている。バンド関係者でこの先一生車椅子生活を送らされることになった者もいる。

その不幸の極めつけが、シェインの健康状態の悪化だったわけだ。腕が動かずギターが弾けなくなる症状がまず出たようだが、長年の飲酒やドラッグ使用が災いしたのは容易に想像できる。

 それにしてもシェーンの問題は一体どうなるのか。もう決定的にたもとを分けてしまったのだろうか。それともシェーンに真剣な養生を促す一つのショック療法なのか、バンドとシェーンの間でこの先、妥協の余地はあるのだろうか。バンドのメンバーは明らかに口が重い。しかし今日のシェーンの行状を目にして語らざるをえなくなってしまったのも確かだ。

メンバーとしては、この状態のシェインとはとてもではないがツアーはできないが、この先どうなるか見えない状態だった。そこで助っ人のストラマーが、60年代のビーチ・ボーイズブライアン・ウィルソンの関係と似た構図、つまりバンドはツアーをやり、シェインが楽曲で貢献するといった形がありうるのではと希望的意見を述べるのだが、ズタボロ状態のシェインを見た後では、記者もそれを鵜呑みにはできない。

インタビューは、ジョー・ストラマーとポーグスの関係(1976年の10月に行われたクラッシュの有名なギグで、客席のシェインは後にモデッツのメンバーになるジェーン(・クロフォード)とすさまじいい取っ組み合いになり、しまいにはお互いの体をガラスの破片で傷つけ合い、シェインの血まみれの陶酔した顔は、夕刊紙や音楽紙のニュース欄を飾ったとな)、このインタビュー当時、クラッシュの「ステイ・オア・ゴー」がリーバイスのコマーシャルに使われて全英一位になっていた件、そしてお決まりのクラッシュ再結成の質問が続く(この時のオファーは相当な金額だったため、ジョーも気持ちがぐらついたことを、ポーグスのメンバーとして来日した時に行われた岩見吉朗によるインタビューで正直に認めている)。

そうするうちに、インタビュー現場は再び修羅場と化す。

 そこで会話は途切れてしまった。というのはシェーンが部屋に入ってきて皆がぎこちなくなってしまったからだ。シェーンの口はよく回らないが、目の表情ははっきりしている。
 シェーンが言うことでは、スパイダーから話があると人から聞きつけて来たんだということだった。スパイダーはそんなことは何も知らないと答えるが、だからと言って会いたくないわけじゃないんだぜと説明する。するとシェーンは全員を見回す。
「そんじゃあよぉ、おれぁ消えるよぉ」とシェーン。
「すぐいなくなっからよ」
 そう言ってドアが閉まった。皆はへたりこむように息をつく。そこで私達は何とかして小声で会話を続けようとする。私のジャーナリストとしての本能は激しく感応している。これはすさまじい記事になるかもしれないと思いながらも、でも自分の中の何かがすごく痛がっている。そこへ数分して、シェーンがまた入ってきてしまった。どうも皆と話したいようなのだ。一方、私達はもう震えが止まらなくなってしまったし、気分も尋常なものではない。この時点で取材は終わった。

この記事を読んだ当時、ピンク・フロイドが『Wish You Were Here』のレコーディング時に、シド・バレットがふらりとスタジオにあらわれ、その変わり果てた姿にメンバーがひどくショックを受けた逸話をワタシは連想したものである。

川崎大助の「もうこの人は絶対長くない。数年以内に死ぬんじゃないか」という述懐が決して誇張ではないのがお分かりになると思う。

しかし、実際はそうならなかった。紆余曲折あったが、シェインはポーグスに復帰したし、近年ではジュリアン・テンプルによる『シェイン 世界が愛する厄介者のうた』という伝記映画も作られた。往時を知る者としては、よくぞこの状態から踏みとどまり、30年以上も生きてくれた、というのが正直なところだったりする。

ソーシャルメディアのアルゴリズムがいかに我々の文化を「フラット化」したか

nejimaki-radio.com

New Yorker の記事を紹介するエントリだが、これで Kyle Chayka の新刊 Filterworld を知った。

ねじまきさんの以下の要約を読み、まさにこれ、ワタシが先週書いた「WEIRDでいこう! もしくは、我々は生成的で開かれたウェブを取り戻せるか」につながる話じゃないかと思った次第。

・インターネットは、現在、アルゴリズムによる推奨とフィードの麻痺したロジックに従ってユーザーにコンテンツを提供する少数のプラットフォームを中心に統合されている。受動的な消費が促進される。あらゆるやり取りが監視され、ターゲットを絞った広告によって商品化される時代。

・私たちは、それぞれがオンラインで独自の道を切り開くのではなく、いくつかの巨大企業が刻んだ溝に巻き込まれている。

・以前は、オンラインでの活動は、未知の領域を探検するソロハイカーになっているような気分だったけれど、今では高速道路に自分の看板を出しているような気分になる。

・私が知っていた断片的な DIY Web と比較すると、ソーシャル メディアは奇妙に予測可能であるように感じられる。LinkedIn や Flickr などの新しいサイトのユーザー プロフィールはテンプレート化され、広告で囲まれている。

インターネット初期のウェブを描いたエッセイ 『Filterworld』 | 世界のねじを巻くラジオ

著者は、自身のサイトで新刊について以下のように書いている。

この本は、InstagramTikTokSpotify といったデジタルプラットフォームが、この10年でいかに我々の文化流通の様式を支配したかについての本である。TikTok のおすすめや Netflix のホームページのようなアルゴリズムのレコメンデーションが、我々がオンラインで見聞きするものの大半を支配している。パーソナライゼーションされているというが、多くのアルゴリズムがもたらした結果は、文化の均質化である。

www.theguardian.com

この Guardian の記事も新刊からの抜粋だが、「なんでどこのコーヒーショップも見た目が同じ感じなのか」、つまり世のコーヒー屋の多くはスターバックスに代表される「美学」を基本とする店舗の作りになってるのかという話だが、実はこれもインターネットユーザという大きな顧客層を取り込むために、デジタルプラットフォームで主流になっている美学に沿った結果の均質化であり、その同質化はコーヒーショップだけに留まらず、我々の現実世界にも影響を及ぼしているよ、と論じている。

上記の論旨を見て、誰もがトーマス・フリードマン『フラット化する世界』(asin:B073S3BRZM)を連想するだろうが、ソーシャルメディアが文化面での「フラット化」を推し進めたというわけですね。

アルゴリズムからの脱出」は、今年の潮流になりうるだろうか。ワタシも WirelessWire 原稿でそれに期待したわけだが、今のネットユーザには独立独歩よりもアルゴリズムに飼いならされることを選びそうな人が多いのではないかとも正直思っている。

いずれにしても、この本は邦訳を読みたいところである。

かのジョン・ラセターがBSDデーモンのロゴを描いていた!

www.jacobelder.com

MIT の蚤の市で、1986年に発行された 4.3 BSD のマニュアルの表紙に描かれている BSD デーモンのマスコットに「初期 Unix システムと現代文化のつながり」を見つけたという話である。

なにかというと、BSD デーモンを描いたのが、ルーカスフィルムの John Lassetter だったことに気づいたんですね。

そう、後にピクサーで『トイ・ストーリー』シリーズをはじめとする数々の CG アニメの名作を手がけた巨匠ジョン・ラセターその人である。

彼が BSD デーモンのログを最初に描いたというわけではないようだが、彼のバージョンがもっともよく知られている。

いやぁ、知らなかったねぇ……いや、いくらなんでもこんなイイ話を知らないというのはおかしい話で、加齢による記憶力の減退が原因で、(当時の同僚が毎号買って職場にもって来ていた)「BSD magazine」あたりで昔読んだはずなのに、忘れてしまっただけかもしれない。

ネタ元は Hacker News

アカデミー賞にノミネートすらされなかった今世紀の名演技20選

www.theguardian.com

先ごろ第96回アカデミー賞のノミネートが発表された。日本関係では『ゴジラ-1.0』が視覚効果賞、『君たちはどう生きるか』が長編アニメーション映画賞、そして↓に感想を書いている『PERFECT DAYS』が国際長編映画賞(日本代表作品として!)にノミネートされたのが話題になっている。

こういう賞では、なんでこれがノミネートされなかったというのがつきもので、今回の場合、『バービー』が監督賞、主演女優賞でノミネートされないのに、助演男優賞にノミネートされたライアン・ゴズリングが遺憾の意をあらわしている。

一昨年にアカデミー賞にひとつもノミネートされなかった名作映画、昨年にアカデミー賞の歴史上もっとも不可解な受賞10選を取り上げたのに続き、アカデミー賞にノミネートさえされなかった名演技を取り上げた Guardian の記事を紹介する。

元記事で「今世紀」とうたいながら2000年公開の映画が一本入っているのは見ないことにして、20(正確には21)の名演技のリストを見てみましょう。

  1. 『マルホランド・ドライブ』asin:B072C28XKH)のナオミ・ワッツ(主演女優賞)
  2. 『サイドウェイ』asin:B07D2K1NBZ)のポール・ジアマッティ(主演男優賞)
  3. 『ありがとう、トニ・エルドマン』(asin:B075N3NHZH)のザンドラ・ヒュラー(主演女優賞)
  4. 『メッセージ』asin:B073WYTS2Q)のエイミー・アダムス(主演女優賞)
  5. 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』asin:B000RZEIF6)のジーン・ハックマン『グランド・ブダペスト・ホテル』asin:B07DQXT9YF)のレイフ・ファインズ(主演男優賞)
  6. 『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』asin:B00NOFGPCA)のオスカー・アイザック(主演男優賞)
  7. ハスラーズ』(asin:B09LVJ2JX6)のジェニファー・ロペス助演女優賞
  8. パディントン2』(asin:B07C9JTV21)のヒュー・グラント助演男優賞
  9. 『アス』asin:B08CZZ9856)のルピタ・ニョンゴ(主演女優賞)
  10. 記憶の棘』(asin:B076H67VF3)のニコール・キッドマン(主演女優賞)
  11. 『グローリー/明日への行進』(asin:B01M4QNP2H)のデヴィッド・オイェロウォ(主演男優賞)
  12. メランコリア』のキルスティン・ダンスト(主演女優賞)
  13. マスター・アンド・コマンダー』(asin:B0B6FCTC88)のポール・ベタニー助演男優賞
  14. ロスト・イン・トランスレーション』と『真珠の耳飾りの少女』のスカーレット・ヨハンソン(主演女優賞)
  15. 『魂のゆくえ』(asin:B07WQ7C2MF)のイーサン・ホーク(主演男優賞)
  16. プラダを着た悪魔』(asin:B0083RQH4K)のエミリー・ブラント助演女優賞
  17. 『ハッピー・ゴー・ラッキー』サリー・ホーキンスasin:B00NF6O1GA)(主演女優賞)
  18. ナイトクローラー』(asin:B07KM1WNJV)のジェイク・ジレンホール(主演男優賞)
  19. 『逆転のトライアングル』(asin:B0C2PFR7BH)のドリー・デ・レオン(助演男優賞
  20. 『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』(asin:B00118Q9ZK)のマーク・ラファロ助演男優賞

近年の映画でも新品のディスクが入手できない映画がぼちぼち出てきてますな。

『メッセージ』のエイミー・アダムスについてはワタシも書いたことがあるし、確かにと思う人がいくつか入っているが、個人的には『ヘレディタリー/継承』トニ・コレットが入ってないのはいかんでしょ! と言いたくなった。

ネタ元は kottke.org

PERFECT DAYS

年末年始に『枯れ葉』か本作を観たいなと思いながら、逃してしまう感じだった。今週たまたま時間ができたので、『みなに幸あれ』など観たい映画はいくつかあってどれを観るか迷ったが、上映時間の関係で本作になった。

役所広司が好演しており、彼のことが好きなワタシはそれだけで嬉しくなる。そして、東京の街が美しく撮られた映画である。トイレ清掃員である主人公の生活感、佇まいはヴィム・ヴェンダースにたくされた夢と言ってよい。シンプルなルーチンで進んでいく作りも心地良い。

思えば、役所広司『すばらしき世界』で主役を演じていたが、社会的な境遇だけをみれば、本作と『すばらしき世界』の主人公は、どこかで道を逸れた世界線の同一人物と考えることだってできるのかなと思いながら観ていた。

実際には、『すばらしき世界』の主人公と違い、本作の主人公の家柄がそれなりで、トイレ清掃員としての暮らしは自ら選んだドロップアウトであることが示唆される。それはよい。ただ本作の主人公の、決して感情を荒立てることのない清貧な暮らしぶりは、年下の女性たちから自然と重くない好意を向けられるところまで含め、一種のファンタジーと言ってよい。それもよいでしょう。

しかし、充足した夢のような生活を送る主人公の演出が、「日本人が本当に世界に誇れるもの」としてデザインされた東京の公共トイレのプロジェクトが資金源になっているという事実は、本作に登場する各所のトイレを現実に掃除している人が本作の主人公のような暮らしは絶対していないだろうというところにどうしても行き当ってしまう。

『すばらしき世界』の監督の西川美和が、「世界の近現代トップアーティストの名曲をジュークボックスのようにかけまくる平山さんが清貧の人だなんてとんでもない」と本作の主人公と製作者をあえて混同して皮肉を書いているのもむべなるかなと思う。

西川美和が触れずにおれなかったように、本作ではワタシも好きな楽曲がいくつも存分に使われている。本作もそうだと言いたいのではないとお断りした上で書くが、大学時代に生協で立ち読みした別冊宝島のムックで、ヴェンダースについて、ロックを何も分かっていないとボロクソに書いている文章を読んだのをふと思い出した。あれは誰が書いた文章だったんだろう。

演者では、ニコ役の中野有紗が良かったですね。特に主人公と二人、自転車に乗るシーン。

WirelessWire News連載更新(WEIRDでいこう! もしくは、我々は生成的で開かれたウェブを取り戻せるか)

WirelessWire Newsで「WEIRDでいこう! もしくは、我々は生成的で開かれたウェブを取り戻せるか」を公開。

今回のタイトル(の前半)は、言うまでもなく↓のもじりなので怒らないように。

とにかく AI がメインテーマでない文章を書きたかった。といいつつ、やはりまったく言及しないわけにもいかないのだが、ともかく、昨年末から目にしたいくつかの記事が、世界のねじを巻くブログの「"クラフトインターネット"という古き良きウェブへの回帰運動に期待している。」を見たときにパッと結びついて今回の文章を書くことになった。ねじまきさんに感謝する。

しかし、過去の自分の仕事まで引き合いに出すことになるとはその時は思わなかったけどね!

そうそう、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』について、以下のように讃えていただいたツイートをつい最近見つけてとても嬉しかった。今からでもいいので、みんな買って!

今回の文章に話を戻すと、強引に基本読書で書評を読んだ本にも結び付けようかとも思ったが、さすがにそれは無理でした。

グリーンソフトウェアとは何ぞや?

オライリー本家から Building Green Software なる本の刊行が予告されている。

恥ずかしながら、「グリーンソフトウェア」という言葉自体知らなかった。

調べてみると、Green Software Foundation なる団体があり、そのサイトによると、グリーンソフトウェアとは温室効果ガスの排出を削減するソフトウェアのことらしい。

詳しくは、このサイトの「グリーンソフトウェアとは」を見ていただくとして、この日本語訳を手がけているのは NTT データの方だが、NTT データは Green Software Foundation の運営メンバーなんですね。

オライリーのグリーンソフトウェア本に話を戻すと、著者に名前を連ねている3人のうち、筆頭に名前がある Anne Currie は SF 作家にしてアーティスト、次の Sarah HsuMedical Students for a Sustainable Future の共同創始者で、つまりは医学生ということで大丈夫かねと思ったが、3人目の Sara Bergmanマイクロソフトのソフトウェアエンジニアみたい。

この人は昨年、グリーンソフトウェアについての講演を行っている。

正直、「温室効果ガスの排出を削減するソフトウェア」と言われても、リソース使用を抑えた作りのソフトウェア? 富豪的プログラミングとは相容れない? くらいしか考えが浮かばないのだが、これからこの言葉が流行ったりするのだろうか。

宇宙はつらいよ、という当たり前の現実を見せてくれそうなウィーナースミス夫妻の新刊『A City On Mars』

コリイ・ドクトロウPluralistic で、『いつになったら宇宙エレベーターで月に行けて、 3Dプリンターで臓器が作れるんだい!?』(asin:4759820353)の邦訳があるケリー・ウィーナースミス(生物学者)、ザック・ウィーナースミス(漫画家)夫妻の新刊 A City on Mars が昨秋出ていたのを知る。

「我々は宇宙に移住できるのか? 移住すべきなのか? 我々はこのことをちゃんと考えたことあるのか?」という副題で明らかなように、新刊のテーマは、人類の宇宙への移住である。

「テクノ楽観主義者からラッダイトまで」で紹介した「TESCREAL」にも宇宙主義(Cosmicism)は含まれており、イーロン・マスクジェフ・ベゾスによる宇宙開拓は今どきなテーマである。

ドクトロウの紹介によると、宇宙への入植は、現状はもちろん、今後可能と予測される技術的能力をはるかに超えていることについて説得力ある主張をしているそうな。端的にいえば、宇宙への移住なんてナンセンスということ。さらには、宇宙開拓に注がれるエネルギーは、人類と地球に利益をもたらすはずの宇宙科学の発展を促進するどころか妨げているという。そうなのか?

月にしろ火星にしろ、宇宙で定住先と見込む場所は、地球よりもはるかに厳しい環境である。それは「現在の」地球より厳しいのはもちろん、人類文明が破壊され、核兵器で破壊された地球でさえ、宇宙に比べれば住みやすい楽園というのだ。

そもそも宇宙に作ったコロニーに必要な人間の数を考えると、そのようなコロニーを作れたとしてもそれを維持できる見込みはとにかく小さい。そもそも地球外で生まれた子供が成人まで成長できると信じる根拠すらほとんどないという。

言っておくが、ウィーナースミス夫妻は決してアンチ宇宙派ではないし、宇宙開拓に反対もしていない。そうではなく、宇宙をベースとした科学の飛躍的進歩や太陽系の探査は、宇宙への入植から始めるべきではないと主張している。ドクトロウの評を読むと、宇宙法(space law)の議論も面白そうだ。

詳しい情報は、本の公式サイトをご覧くだされ。

ジョン・ケイル、ルー・リード、パティ・スミス、デヴィッド・バーンが1976年に共演したライブ音源を聴く

きっかけは Facebook で、ジョン・ケイルルー・リードパティ・スミスデヴィッド・バーンの4人がステージで演奏する写真を見たことだった。

キャプションに1976年とある。パティ・スミスがデビュー作の傑作『Horses』(プロデュースはジョン・ケイル)を発表した翌年であり、デヴィッド・バーン率いるトーキング・ヘッズがデビュー作『Talking Heads: 77』を出す前年である。

そもそもこの4人が同じステージに立つ機会があったなんて知らなかった。その時の音源が残ってたら最高なんだけどないんだろうな、といったん諦めたのだが、後になって気になって調べたら、LIVE AT THE OCEAN CLUB IN NEW YORK, JULY 21, 1976 というタイトルで限定リリースされていた!

ジョン・ケイルが盟友ルー・リードをはじめパティ・スミスデヴィッド・バーン、ミック・ロンソン、クリス・スペディング、アラン・レイニア(ブルー・オ イスター・カルト)と行ったライヴ音源が500枚限定でクリア・ヴィニール・リリース! ジョン・ケイルの"GUTS"、"BUFFALO BALLET"、"I KEEP A CLOSE WATCH"やヴェルヴェッツの"僕は待ち人"、ケイルがプロデュースしたモダン・ラヴァーズの"PABLO PICASO"などをプレイ。なんとこの音源、アンディ・ウォーホルが録音していたものとのこと!

LIVE AT THE OCEAN CLUB IN NEW YORK, JULY 21, 1976/JOHN CALE & FRIENDS (LOU REED, PATTI SMITH, DAVID BYRNE, ALLEN LANIER, MICK RONSON, AND CHRIS SPEDDING)|OLD ROCK|ディスクユニオン・オンラインショップ|diskunion.net

マジかよ! この4人が揃うだけでもすごいのに、ミック・ロンソンやクリス・スペディングも参加していたなんて最高じゃん。

一縷の望みをかけて Amazon を検索したが、ヒットしなかった。念のため YouTube を検索したら……多分これだ!

ルー・リードヴェルヴェット・アンダーグラウンドからジョン・ケイルを放逐した後、そのおよそ20年後の『Songs for Drella』まで没交渉だったということはなく、実は共演する機会があった話は知っていたが、こんな音源が残っていたとはな。

基本的にジョン・ケイルのライブなようで、彼は70年代中盤優れたアルバムを連発しており、演奏されるのもそこからの曲が多い。

ニューヨーク・パンクの証言集であるレッグス・マクニール&ジリアン・マッケイン『プリーズ・キル・ミー』にこのライブについての話はなかったと思うが、正直自信はない。

ベスト・オブ・エネミーズ(NTLive)

昨年観に行きたかったが都合が悪くて行きそびれ、悔しく思っていた。が、年末年始のナショナル・シアター・ライブ10周年記念アンコール上映のおかげで、もうすぐ取り壊しになる大洋映画劇場でようやく観れた。

NTLive の作品を映画館で観るのはこれが初めてで、3000円の料金には、正直、目を疑った(笑)。

本作の舞台は、1968年のアメリカ大統領選挙戦である。三大ネットワークでどんけつの ABC がなんとか視聴率をとろうと、保守派のウィリアム・F・バックリー・ジュニアとリベラル派のゴア・ヴィダルによるテレビ討論番組を企画し、それが大変な評判になるが――という話だが、パワフルかつ辛辣なユーモアにあふれ、もう滅茶苦茶面白かった!

このときのアメリカ大統領選挙は、共和党リチャード・ニクソンでまとまったのに対し、民主党は有力候補だったロバート・ケネディ暗殺事件後の混乱で党が分裂状態となり、党大会では流血の惨事まで起きてしまう。そちらについては『シカゴ7裁判』が詳しいし、あと本作の片方の主役ゴア・ヴィダルについては、川本直の傑作『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(asin:4309420206)が参考になるだろう。

ボクシングの対決に模されるウィリアム・F・バックリー・ジュニアとゴア・ヴィダルの舌戦は、討論として最終的に破綻してしまうが、この劇はそこからが素晴らしい。この討論のことを終生悔い、決して番組を振り返ろうとしなかったバックリーに対し、番組のビデオを入手して何度も観直し、そして何も悔いなかったヴィダルの対比がいかにもで、それに説得力を与えるデヴィッド・ヘアウッドとザカリー・クイントの演技がいずれも見事。その後決して顔を合わせることのなかった両者……いや、実際はそうではなく――という終わり方も余韻があってよかった。

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