当ブログは YAMDAS Project の更新履歴ページです。2019年よりはてなブログに移転しました。

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ブレイディみかこ『ヨーロッパ・コーリング・リターンズ』を恵贈いただいた

ブレイディみかこ『ヨーロッパ・コーリング・リターンズ』を著者より恵贈いただいた。

この本は2016年刊行の『ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート』の単純な文庫化ではなく、『ヨーロッパ・コーリング』と重なるのは全体の3分の1強で、2016年から2021年秋口までの時評コラムを網羅するハイパー文庫化とでもいえるものだ。

yamdas.hatenablog.com

今年、著者の本では『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』や『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』を読んでいるが、特に後者はコロナ禍前で話が終わってしまうので、コロナ禍における著者の文章をまとめて読めてよかった。以前は一つか二つの媒体を押さえておけばよかったのが、今や売れっ子になった著者の連載をとても網羅できてなかったのもあるし。

こうして2014年から今年にいたる、この10年あまり保守党が政権を握る英国の社会・政治時評を通して読むと、著者が一貫して訴えるのは、緊縮政策は公共サービスを損ない、貧しい者から立ち上がる力を奪い、端的に言えば恵まれない者たちを殺す非人道的なものだということ。それを言葉を変え、何度も何度も叩きつけている。

著者も書くように「緊縮は人を殺す」という一点において、英国と同じことが日本でも起きているのを自覚しないといけない。

 「我慢」は道徳的に聞こえるが、闘わない言い訳になる。それは緊縮を進めたい勢力に容易に取り込まれ、利用される。
 何度でも繰り返すが、緊縮は美徳ではない。新自由主義の呼び名の変わっただけの究極の進化形だ。(263ページ)

前著『ヨーロッパ・コーリング』は、英国の EU 離脱を問うた国民投票の前までで終わっており、本書はその後をカバーしているが、それには緊縮政策に対する抵抗という意味で期待された労働党ジェレミー・コービン前党首やスペインのポデモスの挫折も含まれる。

あとコロナ禍における分析としては、以下の分析が目を惹いた。

 伝統的な政治勢力の対立と言えば「右vs左」だった。イデオロギーの闘いだったのである。それが今では、思想や階級による対立ではなく、「ピープルへの訴求」と「専門知識への訴求」の合成具合によって政治バトルを行う時代になっているというのだ。(428ページ)

この点でボリス・ジョンソン政権のテクノポピュリズムは、右派のうまいイメチェン話や左派が「友愛」をなおざりにした話とともに、自民党政権が続く日本の政治状況を説明にも使えるだろう。あと本書の「あとがき」で触れられている、デヴィッド・グレーバーが語る政治的「毒」の話も。

そうそう、「あとがき」といえば、シティズンシップ教育の授業で、austerity(緊縮財政)の意味を説明できる人を求められ、「ブレイディみかこの子どもとして、僕はこの質問にだけは答えないわけにはいかない」と思わず手を上げて、滔々と三分ぐらい説明してしまったという話に失礼ながら吹き出してしまった。

思えば、近年の文章になるに従い、著者の時評が息子さんとのやりとりがアクセントになるものが増えているのに気づく。そうした意味で、息子さんは著者が社会や政治を考える上で良い対話の相手になるまで成長したのだろう。

何度も書くが、天神の喫茶店で、タブレットでサッカー動画をみながら床を転がりまくっていたケン君も立派になって……(遠い目)。

Apache Log4jの脆弱性とともに浮かび上がったオープンソースのメンテナの責任範囲の問題

www.jpcert.or.jp

piyolog.hatenadiary.jp

先週は Apache Log4j脆弱性問題が大きな話題となった……と過去形で書いてはいけないのかもしれない。危機はまだ続いている。

今回、脆弱性破壊力のヤバさとともにクローズアップされたのは、今日、多くのビジネスの生命線となっているオープンソースソフトウェアのメンテナンスが、無報酬であり感謝されない仕事になっており、「オープンソースは壊れている」んじゃないの? という問題である。

dev.to

この Yawar Amin の文章では、log4j の開発者は、なんでこんな大規模なセキュリティ問題を突きつけられる羽目になったのか、賢く勤勉なはずの人達が、なんでこんな何のメリットもない修羅場に追い込まれてしまったのかを問うている。

まず浮かび上がるのは、上記の何の金銭的報酬もなく、評価もされない(かわりに批判はしっかりされ、嫌がらせまで受けてしまう)問題である。どうして開発者はインターネット全体からさも有給なセキュリティエンジニアリング部門みたいな扱いを受けなきゃいけないのか。オープンソースのライセンスはそんなこと保証してないのに。

そこで引き合いに出されるのは、Clojure の作者として知られる Rich Hickey が書いた Open Source is Not About You における、オープンソースにまつわる社会的な押し付けは、ほとんど根拠を持たない最近発明された「神話」の一種だという訴えである。

Yawar Amin はこれを受け、しかるべきライセンスの下でソースコードを公開する以上のこと(コミュニティの管理と成長、貢献の受け入れ、問題の修正、脆弱性の開示などなど)をしないといけないとメンテナに思わせてしまう「神話」を「素晴らしきオープンソースの洗脳(great open source brainwash)」と呼んでいる。

Log4j の場合、依存してものがあまりに多く、影響がデカすぎたというのもあるが、それにしても「神話」が当たり前のように広く信じられ、反論することは許されない。まるで宗教じゃないか、というわけ。その「神話」のため、オープンソースのメンテナが、大企業のアウトソーシングチームになっているのが現実である。

それなら企業がオープンソースに資金を提供すればいい、いや、そんな単純な話じゃないといった議論になるのだが、何かしら「妥協点」があるはずだと Yawar Amin は書く。

この場合は、最初に問題を指摘した(世界的な大企業であり、Log4j脆弱性で被る金銭的被害額も多大であろう)Alibaba のエンジニア側が問題の修正の責任を負うべきであり、オープンソースのメンテナは大企業のために無償で働くべきではなく、他の人達は(早く修正しろと言い立てるのではなく)一歩下がって見守り、オープンソースの利用にともなうリスクと責任、そしてコストを受け入れるべきだ、というのが彼の提言である。

yamdas.hatenablog.com

オープンソースの持続可能性やビジネスモデルは一筋縄にはいかないという話はワタシも昨年書いているが、うーん、Yawar Amin の提言に怒る人もいるのが予想されるのが現実である。

しかし、そこで思い出すべきは、上で引用した佐渡秀治さんが書く「自由」という言葉の重さ(と破壊性)なのだろう。

またオープンソース・プロジェクトの問題のひとつは「終わらせる」ことが難しいことにあるというのも確か。

ネタ元は Slashdot

シャノン・マターン『都市はコンピュータではない』で考えるスマートシティ的発想の限界と都市の多様性

voicy.jp

佐々木俊尚さんの「毎朝の思考」で面白そうな本を知った。

ニュースクール大学の人類学の教授である Shannon Mattern の新刊『A City Is Not a Computer(都市はコンピュータではない)』である。

placesjournal.org

この本は、彼女が2017年はじめに寄稿した同名の文章を発展する形で書かれたものだろう。

wired.jp

この本について調べていて、少し前にこの本を扱った Wired の日本語記事を既に読んでいたのに気づいた。

わたし自身もそうだが、都市について書く人々もまた、現在の科学に組織的なメタファーを探す傾向がある。都市は機械であり、動物であり、エコシステムである。あるいは都市はコンピューターのようなものかもしれない。都市計画の専門家でありメディア研究者の作家シャノン・マターンは、これを危険な発想だと考える。

都市はコンピューターではない:スマートシティ、危険なメタファー、よりよい都市の未来 | WIRED.jp

シャノン・マターンが批判するのは、Google がトロントで失敗した「未来都市」構想に代表される、シリコンバレー企業による、多分にパノプティコン式展望監視システムな「スマートシティ」である。

Google は今年になって、サンノゼのブラウンフィールドの都市開発に再挑戦しているが、「人間中心のスマートシティ」を謳うあたり、マターンらによる批判も考慮しているのかもしれない。

先月マターンと話した際、いまのところどの都市もスマート化に失敗しているように見える理由を尋ねてみた。彼女はその理由を、都市づくりの最も重要な部分を見逃しているからだと考えている。「膨大な計算やデータを駆使するやり方で都市というものを考えると、全知全能という誤った感覚をもってしまいます」とマターンは言う。

都市はコンピューターではない:スマートシティ、危険なメタファー、よりよい都市の未来 | WIRED.jp

マターンの考察には、災害に対する都市の機能も射程範囲に入っており、コロナ禍に都市がどういう役割を果たしたか考えるのも面白いだろう。

都市のメタファーに関するマターンの巧みな分析は、都市が誤った方向に進んだ場合、想像力の欠如だけでなく、(災害に対する防波堤としての)都市の主要な機能が果たせないことを示している。人間は、経済破綻、自然災害、人間の悪意や臆病さなど、失敗に対抗する要塞として都市を建設し、都市が機能している間は、城壁がそうしたものを排除してくれる。建築家ミース・ファン・デル・ローエが述べたように、家が「生きるための機械」であるなら、都市はそれらの機械が社会に連結される場所である。都市とは、協力して生き延びるための機械なのだ。

都市はコンピューターではない:スマートシティ、危険なメタファー、よりよい都市の未来 | WIRED.jp

マターンが、「住民が資源、教育、仕事、インフラについての情報を学び、つながることのできる場としての公共図書館」に特に期待しているのは示唆的だ。

この記事を読んで、ワタシが連想した自分の文章が二つある。

yamdas.hatenablog.com

上で引用した Wired の記事にもあるが、我々は人間自体、特にその脳を CPU や記憶媒体の組み合わせになるコンピュータにたとえがちだ。人間の脳にしろ、都市にしろ、コンピュータよりもインターネットに近いと考えると面白いね。

wirelesswire.jp

「スマートシティ」という概念に対する批判的考察では、スーザン・クロフォードの仕事も共通する。

つまり、「スマートシティ」という言葉にポストヒューマニスト的な、過度に単純化され非人間的なイメージがあることに批判的なわけです。これはかつてのニュータウンなどの都市計画にあったトップダウンで非人間的な感じにつながる感じが個人的にするのですが、クロフォードはそれよりも responsive という単語を採用することで、都市住民の意見に耳を傾けて変化する柔軟性を重視しているのだと思います。

反応が良い都市と市民のテクノロジー - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

クロフォードは「スマート」よりも「responsive(反応が良い)」ほうが都市を考える上で相応しい形容詞だと考えているわけだが、もう少し我々の人種になじみのある形容詞に置き換えるなら、それは「アジャイル」ではないだろうか。

そういえば、ズバリ Agile City という取り組みがあるが、ここ2年くらいあまり動きはないみたいで残念。

また、ここまできてワタシが連想したのは、都市に必要な多様性の問題である。

「ビッグデータを用いた都市多様性の定量分析手法の提案~デジタルテクノロジーでジェイン・ジェイコブズを読み替える~」だが、ジェイン・ジェイコブズが唱えた都市多様性の概念が、定量的に示されたということか。

「都市はコンピューターではなく、インターネットだ」と佐々木俊尚さんは書くが、シャノン・マターンのスマートシティ批判を、ジェイン・ジェイコブズの近代都市計画への強烈な批判に接続し、その上での都市とインターネットの相似性を考えるのは面白そうである。

マイク・アイザック『ウーバー戦記』により日本でもビッグテック糾弾の波がGAFAからウーバーにも及ぶか

調べものをしていて、マイク・アイザックUber 暴露本の邦訳『ウーバー戦記』が出るのを知った。

この本の内容については、原書刊行を受けて書かれた記事が詳しい。

jp.techcrunch.com

www.axion.zone

GAFA に代表されるビッグテック企業が、お前ら(特に GoogleFacebook)資本主義を悪用し、民主主義にとって害悪だろとボコる本がショシャナ・ズボフ『監視資本主義』を筆頭にいくつも出ているが、その糾弾対象が Uber といった後の世代にも及んでいることがよく分かる本である。

「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2020年版)」でも書いたことだが、ワタシも Uber については「『羅生門』としてのUber、そしてシェアエコノミー、ギグエコノミー、オンデマンドエコノミー、1099エコノミー(どれやねん)」で辛辣に取り上げているが、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』に収録するにあたり、その後で判明した不祥事を箇条書きで追加していたら、いつまで経っても新たな不祥事が明らかになって終わらず、呆れたものである。

しかし、日本でも Uber というと配車サービスではなく宅配業務のウーバーイーツになってしまうため、この本がどこまで受け入れられるかは少し分からないところがある。

思えば、ティム・オライリーWTF経済』の表紙には「GAFAよりも注目すべきなのはウーバーだ」という文句が躍っている。その通りだったろう。確かに Uber は「台頭し席巻し」た。しかし、GAFA なんかよりも遥かに生き急ぐように「社会から憎まれ」るところまできたのだから皮肉なものである。

(ニューカマーのみから)2021年ベストアルバムを10枚選んでみた

2021年も終わりである。今回が今年最後の更新になる。

今年もパンデミックが続いたため自室のパソコンの前で過ごす時間も長く、例によって音楽を聴く時間も長かったので、2021年のベストアルバム選みたいなのをやってみようと思った。のだが、また一つアデルやラナ・デル・レイが入ったリストを加えたところで意味はなかろう。

そこで、今年その存在を知り、初めて聴いたアクトのアルバムのみから10枚選ぶことにした。要はニューカマーということだが、重要なのはワタシが知ったのが今年というだけで、別にそのアクトのファーストアルバムばかりではないこと。「このバンド、今まで聴いたことなかったの?」というのもあるが、まぁ、そういうことである。マウントは結構です。

以下、厳密ではないが、上にあるほど上位と考えていただきたい。

アーティスト アルバム 国内盤 輸入盤 Spotify Apple YouTube
Arlo Parks Collapsed in Sunbeams Amazon Amazon Spotify Apple YouTube
Japanese Breakfast Jubilee Amazon Amazon Spotify Apple YouTube
Dry Cleaning New Long Leg Amazon Amazon Spotify Apple YouTube
black midi Cavalcade Amazon Amazon Spotify Apple YouTube
Black Country, New Road For the First Time Amazon Amazon Spotify Apple YouTube
Hiatus Kaiyote Mood Valiant Amazon Amazon Spotify Apple YouTube
Lost Horizons In Quiet Moments - Amazon Spotify Apple YouTube
Yola Stand for Myself - Amazon Spotify Apple YouTube
Yasmin Williams Urban Driftwood - Amazon Spotify Apple YouTube
Anchorsong Mirage Amazon Amazon Spotify Apple YouTube

少なくとも上から3つは、「(ワタシにとっての)ニューカマー」という制約を取り外しても今年のアルバムベスト10に入ると思う。というか、アーロ・パークスは今年聴いたすべてのアルバムで1位で、今年選んだ「21世紀最初の20年にリリースされたワタシが愛する洋楽アルバム40選」に入れるつもりで、しかし、調べてみたら今年のアルバムなので入れられないと気づいて頭を抱えたものである。

それにしても上記の「アルバム40選」を選んだときも思ったものだが、(フロントが)女性のアクトばかりである。

アルバムではなく曲単位で個人的に一番前のめりになったのはこれかな。

yamdas.hatenablog.com

そういえば、ジャパニーズ・ブレックファストについてはエントリを書いているが、中村明美の「ニューヨーク通信」によると、彼女は今年本でもベストセラーを出しており、映画化決定とはすごいね。

映画ができた頃には、日本での彼女のプレゼンスもずっと上がり、邦訳も期待できるんじゃないかな。

そうそう、ジャパニーズ・ブレックファスト以外にもライブ映像を見て、これはよいと思ったアクトは他にもあり、ヤスミン・ウィリアムズは Spotify の何かのプレイリストで1曲知り、興味をもったので YouTube を検索したら、ちょうど Tiny Desk Concert が公開されており、たった一人での弾き語りがとても良かったのよね。

そういうわけで今年の更新もこれで終わりだが、今年いいなと思った曲は、Spotify に乗り換えて以降プレイリストにまとめており、気が付くと4時間超になってしまったが、年末の BGM にでも使っていただけると幸いである。

それでは皆さん、よいお年を。

Feedlyでnoteのサイトの更新が取得できない問題について

もともとブログを更新する予定はなかったのだが、困った問題が起きているため、この場で共有させていただきたい。

少し前に Twitter で話題になったブログがあり、ワタシはそのブログを RSS リーダ(Feedly)に登録しているはずなのに、更新があがっていない? と気づいて、Feedly 上で直接そのブログを見ようとしたところ、以下の表示が出て更新が取得できない。

しかし、そのブログが死んだわけではなく、その URL にアクセスすると問題なく閲覧できる。なんだこれ?

そのブログは note を使用したところだったのだが、調べてみたらところ、Feedly にで登録された note のサイトが他にも更新を取得できていないことに気づいた。

Organize Sources を表示すると以下のようになる。

32ものサイトが Unreachable になっているのに今更気づいた。調べてみたら、その大半が note を使用したところだった。

ワタシに購読されていると知って不愉快に思われる人がいないとも限らないので、モザイクをかけさせてもらった。Unreachable の一覧を見て、加野瀬未友さんの「ARTIFACT―人口事実―」や津田大介さんの「音楽配信メモ」といったサイトがもはや生きてないことに気づいたりもしたが、上述の通り、大半は note である。さすがにここまで偏ると偶然ではないだろう。

よく分からないことに、note のブログすべて Unreachable かというとそうでもなく、少数の例外も存在する。

いずれにしろ購読している note の更新を Feedly で取得できない状態が続いており、端的に困っている。これの解決策はあるのだろうか?

アクセスしたときに出るエラーメッセージ+Feedly で検索をかけるといくつか同じような現象を報告するブログが見つかるが、ワタシと同じ現象そのものではないようだ。

ポイントは以下の3点だろうか。

  1. Feedly の他ユーザのところでも note のサイト更新が取得できない現象は出ているか?
  2. この現象の原因は Feedly にあるのか、それとも note(が出力するRSS)か?
  3. (2の答えを踏まえて)現状を改善する方法はあるか?

もうナウなヤングが RSS リーダーなど使わなくなっていると聞いて久しいが、もしこのブログを読んでいる Feedly ユーザの方がいたら、状況を教えていただきたい(同じく RSS リーダの Inoreader ではこの現象は出ていない模様)。もちろん即効で問題が解決する方法をご存知の方もよろしくお願いします。

この現象が一時的なもので、放っておいてもじきに解決するのであればよいのだが……。

[2021年12月15日追記]:当方では特に何もしていないのだが、本エントリ公開後 note で Unreachable のサイトが徐々に減っていき、先ほど確認するとゼロになっていたので、本件は解決したものと思われる。

使用料無料で何千もの曲を公開し続ける知られざる音楽家ケヴィン・マクロード

皆さん、ケヴィン・マクロード(Kevin MacLeod)という音楽家をご存知だろうか?

恥ずかしながらワタシは知らなかった。そのケヴィン・マクロードのドキュメンタリー映画 Royalty Free: The Music of Kevin MacLeod が作られている。

このトレーラーの冒頭、ケヴィン・マクロードは「インターネットの聖マーティン」と称えられている。彼は何者なのか?

このドキュメンタリー映画の宣伝文句は、「一人の音楽家、何千もの曲、何百万もの動画、そして何十億もの閲覧数についてのドキュメンタリー」である。それだけケヴィン・マクロードは多産な音楽家であり、その音楽は広く利用されている。

しかし、彼の名前を知る人は少ない。なぜか? 映画のタイトルの通り、彼の音楽は「著作権使用料無料」であり、彼は自分が作った音楽から巨万の富を得たわけではないからだ。

ウェブ黎明期の1996年、作曲に興味があったソフトウェアプログラマのケヴィン・マクロードは、incompetech というウェブサイトを立ち上げた。仕事で作った音楽がボツをくらったため、誰かに聞いて使ってもらいたいと無料で利用できるよう音楽をウェブサイトに公開するようになった。そうか、彼はワタシと一歳違いで同年代なんだな。

それから20年の時が経ち、彼が作り、クリエイティブ・コモンズの(もっとも利用に関する条件が緩く、きちんとクレジットすれば商業利用も改変も可能な)表示ライセンスの元で無料で公開される楽曲は何千にもなり、そしてそれは数多くの動画で使用されるまでになった。

彼の作品は人気ゲームやハリウッド映画やテレビ番組などいろんなもので使われており、実はバッハやモーツァルトベートーヴェンと並んでもっとも音楽がかかる場所で聞かれているらしい。

また彼は FreePD.com というパブリックドメインCC0)の音楽を集積するサイトも作っている。筋金入りですな。

いやはや、このブログの読者ならご存知のように、ワタシはこれまで Creative Commons 関係のニュースを好んで紹介しており、その過程でケヴィン・マクロードの名前にも音楽にも触れているはずだが、恥ずかしながらいずれも認識してなかった。

ただ「マクロード」という苗字には何か覚えがあり、ブログを検索してみたら、『表現の自由vs知的財産権著作権が自由を殺す?』(asin:4791762045)の著者がケンブリュー・マクロード(Kembrew McLeod)だった(参考:『表現の自由vs知的財産権』の著者がデジタルサンプリングの困難をテーマにした『Creative License』)。問題意識も近そうだが、親類というわけではないんだろうな。

手っ取り早く彼の音楽を聴きたい人は、彼の YouTube チャンネルからどうぞ。

ネタ元は Boing Boing

米国のクリーンエネルギー移行に現実的なヴィジョンを示すソール・グリフィス『Electrify』

doctorow.medium.com

コリイ・ドクトロウの書評で知ったが、Rewiring America の共同創始者として知られる発明家、起業家ソール・グリフィス(Saul Griffith)が Electrify という本を出していた。

タイトルの "electrify"は、「電力を供給する」の他に「あっと驚かせる」という意味もあり、おそらくはそのダブルミーニングを狙ったものでしょう。気候変動と戦う楽観主義的な、しかし同時に現実的で地に足のついた行動計画を示しながら、新たな雇用とより健全な環境を創出しながらすべてを電化していこうというわけですね。

今年はとにかく気候変動や、それに起因するエネルギー問題についての報道を目にすることが多かった。その潮流を受けた科学本は既にいくつも出ているが、本書は我々が抱える問題の技術的なパラメータやいろんな解決策を提示し、妥当っぽいものからバカげたものまでを選別し、その中で最良の提案を達成する実用的なプランを明確にする工学書だとコリイ・ドクトロウは評価している。

yamdas.hatenablog.com

ワタシのブログでグリフィスの名前が出てくるエントリとなるとこれで、要は彼はティム・オライリーの義理の息子になるんですね。「今後20年間に生まれる気候変動億万長者は、インターネットブームで生まれた億万長者よりも多いだろう」と予言するオライリーのエネルギー分野のブレーンなんだろうな。

以下、ティム・オライリー『WTF経済』の426-427ページから引用する。

 これは工学や材料科でも成り立つ。ソール・グリフィスの発言を思い出そう。「我々は物質を数学に置きかえるんだ」。ソールの会社のひとつ、サンフォールディング(Sunfolding)社は、大規模ソーラーファームに太陽追尾システムを販売している。これは鋼鉄、モーター、歯車を、ペットボトルと同じ産業グレードの材料から作られた重量も費用もはるかに小さい空気圧システムで置きかえるものだ。別のプロジェクトは、天然ガス備蓄用の巨大なカーボンタンクを小さなプラスチック細管からできた腸管のようなものに置きかえ、天然ガスのタンクをどんな形にもできるようにして、タンク全体が一気に破裂するリスクも減らす。物理学をきちんと理解するなら、確かに物質を数学に置きかえることは可能なのだ。

このあたりを読むと、確かに理論的、工学的な裏付けのある本を書ける人だろうなと思う。

マリアナ・マッツカートやケヴィン・ケリーといったこのブログでもなじみのある人も推薦している。

ただまぁ、当然ではあるけれども、この本の議論は基本的にアメリカを対象としており、極東の島国の状況とは前提から規模から違う話が多いから、そのまま翻訳しても難しいかもしれない。

この翻訳家がすごい! 2021年版

今年ブログで新刊本を取り上げていて、この本もこの人が訳しているのかと思うことが何度かあり、まとめておこうと思った次第。

翻訳数が多いだけではなく、自分のアンテナにひっかかる本が多い、というのがポイントになる。ワタシの場合、どうしてもフィクションよりもノンフィクションになるので、例えば海外文学好きの人が選べば、また違ったチョイスになるだろう。

これだけの仕事量をこなすとはすごいなぁ、と素直に驚いたから取り上げるだけで、別に数が多ければ偉いと言いたいわけではないので念のため。

関美和さん

本ブログで取り上げただけでもジョン・キャリールー『Bad Blood』ジェフ・ベゾス『Invent & Wander』を手がけているが、それを含めて今年刊行された本では、なんと6冊に(共)訳者として名前を連ねている。

今年最後に刊行されるのはマリアナ・マッツカートだが、ワタシが3年近く前に取り上げた『The Value of Everything』ではなく、その次作の翻訳か。ローマ教皇が推薦の言葉ってマジかよ!

千葉敏生さん

本ブログで取り上げただけでもスコット・バークン『デザインはどのように世界をつくるのか』ジャネル・シェイン『おバカな答えもAIしてる』グレッチェン・マカロック『インターネットは言葉をどう変えたか』を手がけているが、それを含めて今年刊行された本では5冊手がけており、しかもすべて訳者としてのクレジットは千葉さんお一人!

さらには来年の2月には早くも2冊の訳書の刊行が予告されている。どんだけの仕事を平行してこなされているんだ……。

野中モモさん

やはり広義のテック関係の本の紹介が多い本ブログでは取りこぼしがちなのだけど、野中モモさんが今年3冊の訳書を刊行するのに目を見張る。訳された本のテーマも50人の女性シリーズをはじめ一貫していて、それにも野中さんの強い意志を感じる。

野中さんとワタシは同年だが、それこそ自分がウェブサイトを始めた頃からずっとあこがれの存在なので、多くの女性たちをエンパワーするであろう野中さんの仕事を称える機会を持てること自体嬉しい。

ラストナイト・イン・ソーホー

以下、公開中の作品の結末まで触れているので、ネタバレを気にする人はご注意ください。

エドガー・ライトの新作というだけでも観に行く理由になるが、主演が『ジョジョ・ラビット』のトーマサイン・マッケンジー『クイーンズ・ギャンビット』のアニャ・テイラー=ジョイということでとても楽しみで、公開初日に観に行った。

やはり、この主役二人がとても素敵だったなぁ。彼女たちの対比が絶妙というか。トーマサイン・マッケンジーは後半ほぼタヌキメイク状態になっちゃって少し損しているが美しいし、アニャ・テイラー=ジョイという人のユニークな容姿は本作でも力を発揮している。ワタシが最初に観たこの人の出演作は『スプリット』のはずで、その時点でとてもうまい役者だったと思い当たるが、本作でも強い目力で60年代の歌姫を目指す役柄をものにしている。

エドガー・ライトの前作『ベイビー・ドライバー』は車×音楽映画としては文句なしだったが、主人公の恋愛に関する筋立てが好みでないのが個人的にマイナスだった。彼の作品ではやはり、サイモン・ペグ×ニック・フロストと組んだ『SPACED 〜俺たちルームシェアリング〜』並びに「スリー・フレーバー・コルネット3部作」が好きで、コメディの作り手というイメージがある。

60年代のスウィンギング・ロンドンの光と闇が主人公の現実に侵食する本作は、サイコホラーに分類されるのだろうが、ライトの映画オタクとしての引き出しの多さがいかんなく発揮されていて、目覚ましを使った恐怖描写など楽しんで演出したんだろうなと想像する。本作はいささかとってつけたようなハッピーエンドで終わるが、これも彼の考える「ホラー映画的ハッピーエンド」の型なのかもしれない。

また本作でも音楽の使い方がうまくて、というか60年代ポップ鳴りっぱなしなのだけど(アニャ・テイラー=ジョイによるペトラ・クラーク「恋のダウンタウン」のアカペラも素晴らしい!)、そういえばジョージ・ハリスンがカバーして全米1位のヒットとなった「セット・オン・ユー」の原曲を映画で聴けるとは思わなかったな。クライマックスで使われるのがダスティ・スプリングフィールドというのがポイントなんでしょうな。

またそれとも関連する意味で、夢を抱く女性を食い物にする男たちが本作のホラーの源泉となるのも時宜を得ており、無駄なカットが一切なく、2時間弱にまとめているのも良い。クライムアクションの『ベイビー・ドライバー』で商業的に大成功した後に、映像作家として幅を見せつけるサイコホラーの本作をものにしたことで、エドガー・ライトは当代を代表する名監督のリストに仲間入りしたのではないか。

キング・クリムゾン最後の大阪公演を観た

(細かい異同はあるがほぼ)現在のラインナップでは、2015年12月2018年12月に続くライブとなった。

こうして書くと、きっちり3年ごとに来日公演が実現していることに気づくが、今年夏に年末の来日公演が発表されたとき、正直行くかどうかかなり迷った。なにより当時コロナ禍の第5波最盛期で、個人的にはライブに行くとか考えられない精神状態だったし、告知されている時期に状況がどうなっているかまったく読めないのもあった。

しかし、これを逃したら絶対に後悔することは分かっており、気持ちを奮い立たせて高いチケットを購入した。

今回のツアーがキング・クリムゾンとしての最後のツアーになることはトニー・レヴィンなどメンバーも明言しており、ロバート・フリップ御大も今回の来日公演が「日本での集大成となるツアー」になると書いている。キング・クリムゾンというバンドが「完結」に向かっているのは間違いない。

前回、前々回と2回続けてチケット購入をうっかり忘れ、いずれも後方の席しか取れなかったのに対し、今回は(やはり発売開始当初は躊躇した人が多かったのか)8列目という前方の席が確保できた。会場に入るとジャッコ・ジャクジクがほぼ前に来る位置で、つまりはフリップ先生側になる。それだけで気分がアガるのを感じた。

www.setlist.fm

ドラムキット3つが前列に並ぶ構成にも、もはや違和感を覚えなくなっている。今ではトーヤさんとのはじけた夫婦漫才そのユーモアセンスが知られることとなったフリップ先生による陽気なアナウンスが流れてメンバーが登場し、『アイランド』の例の SE が流れる中、軽く音出しをして演奏に入る流れももはやおなじみである。

結論から書けば、ライブ体験そのものとしては、2018年の来日公演が勝った。前回は第1部が80分、20分の休憩、そしてその後アンコール含め80分の第2部で全体で3時間だったのが、今回は第1部から代表曲がバンバン演奏されながら全体で2時間20分で、単純にやる曲数が減ったのもある。

「21世紀の精神異常者」において、メル・コリンズが呑気に「A列車で行こう」を吹いていると、フリップ先生がヒステリックなギターをかき鳴らして割り込むような音の演出も欠けていた([2022年02月16日追記]:この日の演奏音源が公開されているが、メル・コリンズは「A列車で行こう」を吹いてますね。記述が不正確でした。すいません)。逆に言うとバンドの音に余剰がなくなったというか、タイトになっていたと言える。前回より曲数は減ったとはいえ、最後の「スターレス」まで聴きたい曲は大方聴けた。それで満足である。

あと全体的にジャッコの声はよく出ていたが、彼が弾き出した「ディシプリン」のイントロが貧相でガクッとなったな。

今回はこれまでよりも圧倒的に前列で観れたのもあり、フリップ先生の姿を目に焼き付けたが、「クリムゾン・キングの宮殿」のあの音はフリップ先生が鍵盤を腕で押さえて出していたんだ、といった発見もあった(あの曲ではトニー・レヴィンも左手でベースを弾き、右手で鍵盤を押さえていた時があったような)。

これは以前も書いたことだが、思い入れのあるミュージシャンはたくさんいるが、ワタシの場合、突き詰めればルー・リードロバート・フリップの二人に行き着く(もし3人選ぶなら、ドナルド・フェイゲンが入るだろう)。ロバート・フリップは、つまりはキング・クリムゾンは、ワタシにとって特別な存在なのである。

高校2年生の夏休みに『太陽と戦慄』の CD をレンタルして聴き、人生最大のショックを受けてから30年以上の年月が流れたが、その間に6回の来日公演を観れた。特に現行のラインナップになってからは、今回を含めその歴史を総括するライブを見せてくれた。

コロナ禍がまだ世界的に続く中、真っ先に来日公演を実現してくれた(デヴィッド・シングルトンも書くように、これが少しでも遅ければ来日自体できてなかった!)キング・クリムゾンに心から感謝したいし、その「完結」の一端に立ち会えてよかった。

ありがとう、フリップ先生。

「ウィキ」がペディアに乗っ取られたように「クリプト」はデジタル資産に乗っ取られるのか

www.wikiart.org

Scripting News 経由で WikiArt.org を今更知る。

はてなブックマークを見ると、2012年には既に話題になっているので、今まで知らなかったのが恥ずかしいレベルかもしれない。

たまたまエドワード・ホッパーの画が引用されていたので、ワタシも彼の作品でもっとも有名な Nighthawks のページなどを見たが、まだパブリックドメイン入りしていない彼の作品も Fair Use の掲示の元に公開されている。

「Visual Art Encyclopedia」を謳っており、要はアート分野におけるウィキペディアを目指したもので、確かに絵画ごとにそのスタイル、現物が収蔵されている場所など各種情報などの情報がしっかりしている。

しかし……このサイトは編集可能な Wiki ではないのだから、サイト名称は WikiArt ではなく Artpedia でよかったのではないだろうか?

yamdas.hatenablog.com

Wikipediawikiって略すな」の戦いは既に敗北が決定しており、例えば Twitter で「ウィキ(Wiki)」という単語を見かけたら、それはたいていウィキペディアを指している。

この問題の副次的な影響として、WikiArt のように百科事典的サイトの名称に Wiki が冠せられる場合があることかもしれない。この話は、10年以上前にも書いているが。

text.baldanders.info

少し前から気になっていたが、「Crypto」という言葉が暗号通貨などデジタル資産関係のサービス方面の名称に多用されている現状に暗号技術関係者が不満を表明しているとのこと。

ワタシが「ウィキ&ペディア」という文章を書いたのも今や昔、「クリプト&カレンシー」というか、デジタル資産方面の用語に「クリプト」が多用される現状は、百科事典的サイトの名称に Wiki が冠せられる現象に似たものなのかもしれない。

技術雑誌をデジタル化して復刻するプロジェクトを応援したい

www.techmag.jp

佐渡秀治さんのツイート経由で TechMag.jp のことを遅ればせながら知った。

1960年代から2000年にかけて、日本の半導体やコンピュータ技術は飛躍的に進歩し、技術雑誌がそれに貢献しました。  デジタル化して絶版をなくし、誰もの手に届く所に置き、後世に伝えることが、本プロジェクトの目的です。

技術雑誌|電子復刻|TechMag

これは素晴らしい。確かに技術雑誌がそのまま失われるのは文化的な損失である。技術雑誌であれ、Software Design 誌のように定期的に総集編を DVD にしてくれるところは少ない。海外ならインターネット・アーカイブがやっている企画だが、さすがに日本の技術雑誌までカバーするのは期待できないわけで。

公共電子図書館や個人への販売まで射程に入れた電子復刻の試みは有意義だし、何かしら応援できたらと思うが、今個人にできることは既に販売されている電子版を購入することだろうな。

既にコンピュータサイエンス誌『bit』の電子復刻が進んでいるが、思えばワタシは bit 誌の休刊を惜しんで「a little bit...」という、今読めば死ぬほど拙い文章を書いているが、それが2001年、つまりは bit 誌休刊から今年で20年になるんですね。

ダニエル・カーネマン、キャス・サンスティーンらの最新作『NOISE 組織はなぜ判断を誤るのか?』が早くも出た……のだが

www.hayakawabooks.com

キャス・サンスティーン『入門・行動科学と公共政策』を取り上げたとき、『NOISE』について「来年あたり邦訳が出るに決まっている」と書いたが、2021年中に出るとは! さすが早川書房、仕事が早い。

水野祐さんが書くように「認知心理学、行動経済学、法学のスターが集結」した本である。これは売れるに違いない。

しかし……2021年にカーネマンやサンスティーンの新作の邦訳を迎えるにあたり、なんというかいささか気まずい感じを禁じ得ないというのも正直なところである。

今年、「行動経済学の死」騒動があったためだ。

note.com

note.com

最初に燃えたのはダン・アリエリーで、彼の『予想どおりに不合理』、『ずる』の2冊を読んで感銘を受けていたワタシにしてもショックが大きかった(まさか『ずる』を書くにあたりズルをやってたとしたら、それはなんというか……)。

そして、その延焼が『ファスト&スロー』が私的オールマイベストの1冊であるカーネマンの仕事や、サンスティーンの代名詞的な「ナッジ」にも及ぶ話を聞き、なんとも困惑させられた。

まぁ、ワタシの困惑などどうでもよいのだが、行動経済学の成果を持ち上げるかわりに一部の学問について切り捨てるような主張を行ってきた論者(具体名は挙げませんが)はちょっと困ったことになったのではないかしら。

そうしてみると、早川書房による「行動経済学はついにここまできた!」という煽り文句も勝手に皮肉に思えてくるくらいだし、というかこのエントリで名前を出した本はすべて早川書房から出ているのだが、そういう穿った見方を置いておき、新刊を評価すべきなんだろう。

なんで最近の映画は役者の台詞が聞き取りづらいのか(ヒント:クリストファー・ノーラン)

www.slashfilm.com

かつてはハリウッド映画の台詞の99%が理解できた。しかし、この10年ほどの間に、その割合は著しく低下しているのに気づいた。映画館で映画を観てて、台詞がまったく分からないことすらある。家で映画を観るときには、ストーリーの重要な部分を逃さないように、字幕をつけるのが習慣になっていると嘆くこの記者は、この原因を知ろうとハリウッド大作を手がけ、オスカーを受賞したことのある音響関係者に連絡をとったが、オフレコですらコメントを拒否する人もいた。

そこで、その謎を解くべくアマゾンのジャングルに向かった……というのはウソだが、ここまで読んだ時点でワタシの頭に浮かんだのは――

ハンス・ジマーの音楽の圧が強すぎるから!

さすがにそれが一番の理由に挙げられてはなかったが、映画音響のミキシングは簡単な仕事ではなく、これは単純な問題ではないというエチケットペーパーを敷いた上で、最初にやり玉にあがっているのがクリストファー・ノーランで笑ってしまった。だいたい合ってるじゃん(言い過ぎです)。

つまり、当代最高の映画監督の一人であるクリストファー・ノーランは、そのパワーを行使して意図的にサウンドデザインの限界に挑戦しているという。意図的にやっているのだから、ノーランはその件で苦情を言われようが(実際、言われているらしい)意に介していないと思われる。

次に理由として挙げられているのは役者の演技の問題。具体的には時に台詞が解読不能トム・ハーディがやり玉にあがっているが、『ダークナイト ライジング』で台詞が聞き取りずらかったのはマスクのせい、というかこれもクリストファー・ノーランのせいだが、自然な演技スタイルを追求する役者が増えたのは、後始末をする音響関係者には地獄らしい。

その次には、映画がより視覚的にエキサイティングになりカメラチームが大事にされる一方で、音響チームが映画の撮影現場で十分リスペクトされていないのが挙げられている。音より画が重視され、(予算の関係もあるが)音が理由の撮り直しは許されず、後処理でなんとかする、となりがちとな。

そして最後に挙げられているのは、テクノロジーの進化。昔の映画にあった音響の問題は忘れられ、デジタル技術が進化した今ではサウンドエディターに期待されるものも多くなってしまった。また、昔よりも現在は映画の中での音楽の量が増えており、監督が音楽に頼りすぎて、結果音楽と台詞のせめぎ合いが起きていると見る音響関係者もいる。

この4つの原因は撮影現場の問題だが、それに隠れた問題もあり、それは慣れの問題。映画製作にはとても時間がかかるので、撮影の繰り返しのうちに台詞の不明瞭さが現場で分からなくなってしまう。

そして、この記者が今回の取材でもっとも興味深いかったこととして挙げるのは、ミキシングの段階での映画の音と、シネコンで上映されるときの音は品質の差が生じるということ。これは別に今始まった話ではないが、フィルムからデジタルへの移行と、シネコンなどの映画館にサウンドに熟知した従業員がいなくなったことがあいまって、シネコンで上映される音響の質が低下したという話も出てくる。

さらには、劇場用のサウンドミキシングも大変だが、ストリーミング配信用のサウンドミキシングにも苦労があるという話が出てくる。データ圧縮の問題があるのは想像がつく。やはり音響にこだわるなら、ストリーミングよりも物理ディスクというのは分かるが、ストリーミング用のオーディオを測定する方法には業界標準がないらしいのは困ったものだ。

そして、ストリーミング全盛、そしてコロナ禍もあり、映画が映画館で観るものから家のホームシアターで観るものに変われば、求められる音響も変わるところがあるのは間違いないが、少なくとも現状ではそれに最適化されたミキシングは行われていない。

それならどうやって現状を正すことができるかという話になるが、この文章では明快な解決策は示されていないというのがワタシが感想である。

ネタ元は Slashdot

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