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ヤン・ルカン『ディープラーニング 学習する機械 ヤン・ルカン、人工知能を語る』を恵贈いただいた

講談社サイエンティフィクの横山さんから『ディープラーニング 学習する機械~ヤン・ルカン、人工知能を語る~』を恵贈いただいた。

著者のヤン・ルカンは、ディープラーニングの第一人者であり、特に畳み込みニューラルネットワーク創始者の一人として知られる、2018年のチューリング賞を受賞した世界的な計算機科学者である。その彼が人工知能ディープラーニングについて包括的に書いた本が本書である。

また本書の監訳者は松尾豊氏で、ワタシも氏の『人工知能は人間を超えるか』(asin:B00UAAK07S)を読んでいるが、彼が監訳者なら日本語版の内容は問題ないだろうという安心感がある。

本書は書名から一般向けに書かれた AI の概説書で、この分野の世界的な成功者である著者の研究者人生の回顧が主な本かと勝手に思って少し軽い気持ちで読み始めたら、それを最初のほうに一章設けて書いているが(第2章「AIならびに私の小史」)、本領はその後の学習機械、ニューラルネットワークディープラーニングについてずんずん解説していくところにあり、そこでは必然性をもって数式も Python のコードも避けることなく出てきて、事前の見立てよりも読了に時間がかかる読み応えのある本だった。

本書は、著者が終章においてさらっと書いている通りの本である。

適度なハイキングを楽しむというより、険しい山道を駆け足で突き進むようなものだったかと思う。コースの途中には数々の難所があったが、迂回する気はさらさらなかった。なるべく歩きやすうように配慮はしてみたが、この新しい世界になじみの薄い人には、かなりの難関だったかもしれない。(p.369)

これが10万部売れた(著者の本国)フランスはすごいな! とも思うが、読者を甘く見た浅い内容のハウツー本ではなく、本書は一般向けの本ながら、間違いなくこれからも話題の中心となる人工知能分野について、折に触れ再読に耐える本である。

人工知能分野を包括的に解説しながら、当然のようにそこで当然のように自身の研究成果が言及されるところに著者の自負が伝わる。チューリング賞の受賞という、研究者人生の最大のハイライトと言えるトピックについて書く際も、「私の受賞理由はすでに古びた研究によるもので、過去5年間の研究成果はそこに含まれてなかった。(p.293)」と書いてしまう現役意識もチャーミングだ。

著者は、本書の最初で「人工知能は、経済や通信、医療、交通など、あらゆる分野を掌握しつつある。(p.16)」と高らかに宣言しているが、その研究者人生は、いわゆる「AI冬の時代」を乗り越える苦闘とも言える。本書には「タブー視されるニューラルネットワーク」というフレーズがあったりするが、著者たちはニューラルネットワーク研究をバカにされた時代に「ディープラーニング」という新語をひねり出し、なんとか科学コミュニティに居場所を作ってきた話など本当に面白いし(参考:「チューリング賞」が贈られるAI研究の先駆者たちは、“時代遅れ”の研究に固執した異端児だった)、そういう時代にニューラルネットワーク研究を諦めなかった「異端の過激派」として数理工学者の甘利俊一福島邦彦の名前が挙げられているのも日本の読者には示唆的だろう。

著者は2010年代には成功者として Facebook に迎えられ、Facebook人工知能研究所(FAIR)を立ち上げる。本書を読むと、そのあたりの大企業における AI 研究所の運営と変化についての記述もなかなか読めるものではなく興味深い。そしてまた本書を読むと、この分野の主要研究者はだいたい FacebookGoogle に行くんだなと思ってしまう。

著者はマーク・ザッカーバーグが興味ある分野は論文を読み、深く考える人物であることを書いた上で、「何か興味をもったら、いつもそんな風にするらしい。バーチャルリアリティについても同じようにするだろうし、Facebookの民主主義への影響についてもそうするだろう。(p.270)」と少し軽口めいて書いているが、その後まさかここまで Facebook が民主主義の敵、社会の害悪として指弾されることになるとは著者も予想できなかったのだろう。

本書で語られるディープラーニングの成果は、それこそ Facebook のようなもはや巨大プラットフォームがそれなしに機能しないところまで来ていることからも明らかである。一方で、うまく書けないのだが、次の「AI冬の時代」もいずれまた来るのだろうな、ということを思ったりした。

科学コミュニティの一部では、この種の強化学習こそが人間並みのAIを設計するためのカギになると考えられていた。DeepMindの大物のひとりにしてAlphaGoの立役者デイヴィッド・シルヴァーは、「強化学習こそが知能の本質である」と口癖のように言っていた。だが、われわれはその信念に与せず、予言者カサンドラの役割を演じてきた。(p.303)

さて、以下は余談。以前にも書いているが、最近は索引がない本が多く、これは良くない傾向である。電子書籍ならもう索引は必要ないということなのかもしれないが、ワタシが読んでいるのは紙の本なのだ。少しでも出版コストを下げるためなのかもしれないが、出版社のサイトで索引を PDF ファイルで公開してほしいところ。

あと第1章の「偏在するAI」は、「遍在するAI」が正しいのではないか(自分が『デジタル音楽の行方』でやらかした間違いを思い出した)。

CNN主任医療特派員サンジェイ・グプタの『World War C』はコロナ禍の教訓と次のパンデミックへの準備を説く

Talks at Google に、CNN の新型コロナウイルス報道に出ずっぱりだった印象があるサンジェイ・グプタが登場している。

彼が出演したニュース映像は CNN のサイトで見れるし、CNN のポッドキャスト Chasing LifeCoronavirus: Fact vs. Fiction ニュースレターでも知られる(けど、さすがにそちらはワタシは追ってない)。日本語版 CNN のサイトを検索しても、「屋外でのマスク、まだ必要? 専門家が答える」くらいしかヒットしないな(余談だが、この記事における著者のアドバイス通りなら、そりゃ米国は新規感染者数が減らないよなと思ってしまいました!)。

彼は World War C という本を出したばかりで(Kristen Loberg との共著)、要は新刊のプロモーションですね。

この書名は言うまでもなく映画『ワールド・ウォーZ』を受けたものだが、COVID-19 の文脈でこのフレーズを使ったのは、ポール・クルーグマンが最初……と思ったら、今回調べて、それより前の事例に気づいた。まぁ、割と連想しやすいフレーズですかね。

COVID-19 については既にたくさん本が出ているが、ちゃんとした医療の専門家によって科学的データを踏まえ、一般にも分かりやすい言葉で明晰に書かれたコロナ禍の概観が求められているはずで、この本はその需要を満たすものだろう。本書の場合、未来にコロナとはまた別のパンデミックが来たときに社会の回復力を重視しているようだ。

共著者のクリスティン・ロバーグは、神経科医のデイビッド・パールマターと共著で『「腸の力」であなたは変わる:一生病気にならない、脳と体が強くなる食事法』(asin:4837957633)、『「いつものパン」があなたを殺す:脳を一生、老化させない食事』(asin:4837958036)、生物科学研究者のジェームズ・W・クレメントとの共著で『SWITCH(スイッチ)オートファジーで手に入れる究極の健康長寿』(asin:429600008X)を出しており、要は医療や健康の専門家が一般向けに本を出す際に重宝するライターと思われる(個人的には、デイビッド・パールマターの主張はちょっと問題多いんじゃないの、と思っているのは書いておく)。

そうした意味で、本書を推薦しているのがウォルター・アイザックソン、映画『コンテイジョン』の脚本家スコット・Z・バーンズ、そしてフランシス・フォード・コッポラというのは、この本のストーリーテリングがそれだけ優れているということでしょうな。

サンジェイ・グプタの本では、『マンデー・モーニング』(asin:4760145540)に続く邦訳がこれは出るんじゃないだろうか。

ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳――学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』が楽しみだ

davitrice.hatenadiary.jp

Twitter の検索機能を使って調べたところ、自分がベンジャミン・クリッツァーさんの存在を認識したのは2017年のようだが、意識して読むようになったのは2019年以降である。

特に印象に残っているのは、例えばマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』でも多分にかませ犬みたいな役割を担わされた功利主義について、説得力のある擁護をしていたこと。

以来、ベンジャミン・クリッツァーさんのブログを好きで読んでいるが、その論旨に同意しないこともある。ついでに書くと、映画の好みも異なる。しかし、それを含め、氏のしっかりした芯のある文章は簡単に一蹴できるものではなく、自分の中でなんとなくで片付けている問題、思い込みのままに済ませていた評価について考えてみる契機を何度か与えてくれた。

そうした意味で、氏のブログを基にして、初の著書『21世紀の道徳――学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』が出るのを喜ばしく思う。何より『21世紀の道徳』という書名の正面切った、堂々たる感じ、「正解」を引き受けようではないかという自負が素晴らしい。

1989年生まれということは、例えば樋口恭介さんと同年か。自分からすれば、1989年生まれと聞くと若いなぁと思ってしまうのだが、それでも、何も知らない若者の年齢ではもはやない。それだけ自分が歳を取ったということだが、とにかくこの本が売れて、著者が文筆業により時間を割けるようになることを願うばかりである。

どん底からの脱出――将棋のA級順位戦で1勝4敗というのはどういうことか

www.shogi.or.jp

将棋の名人戦の挑戦者を決めるA級順位戦が、5回戦まで終了し、斎藤慎太郎八段が負けなしの5連勝で、昨年に続く2年連続の名人戦挑戦に向けて快調である。

さて、最初にA級順位戦について「名人戦の挑戦者を決める」と書いたが、誰が名人の挑戦するかを決める戦いであるとともに、誰がA級、つまりは将棋界における「一流」の地位から落ちるかを決める戦いという厳しい側面もある。というか、将棋ファンは前者と同じくらい、年によってはそれ以上に後者に注目する。

今年も誰が落ちるかが密かに注目されている。羽生善治九段が1勝4敗だからだ。特に彼の今年の順位は8位で下位のため、それも不利に働く(最終戦を終えて同じ勝ち数の場合、順位が下位の棋士から降級になるため)。

「A級順位戦で1勝4敗」というので思い出した文章があるので書いておきたい。

それは河口俊彦の「どん底からの脱出」というタイトルの文章だったと思う。おい、「と思う」とはどういうことだと言われそうだが、その文章を収録した新潮文庫が実家にあり、手元にないため、以下の内容はすべてワタシの記憶に依る。もっとも、ワタシはその著者の河口俊彦自身から、「オレ、アンタみたいにオレの文章読んでる人嫌いなんだよ」と面と向かって言われた人間なので、内容に大きな相違はないはずである。

note.com

河口俊彦が「どん底からの脱出」で書いたのは、昭和60年度のA級順位戦における米長邦雄永世棋聖の戦いである。

当時、米長邦雄は全盛期にあった。十段、棋聖棋王、王将のタイトルを獲得し四冠王となり、「世界一将棋が強い男」とも称された。だいたい20代前半で最初のピークを迎える将棋界において、40歳前後でそれを迎えた米長邦雄という人の特異さに気づかされるが、ともかくそこからの転落も早かった。

すぐに宿敵中原誠に王将位、それまでカモ筋にしていた桐山清澄に棋王位を奪われて二冠に後退した。特にひどかったのはA級順位戦で、5回戦まで終えて1勝4敗、特にこの年度は、その前年度に大山康晴十五世名人が癌手術のため休場していた影響で定員が一人多く、降級枠も一名多い3名のため、なおさら厳しい状況にあった。

その頃のある日、河口俊彦米長邦雄将棋会館で顔を合わせた。お互い対局を終えた後だったと思うが、せっかくなので食事でも、と同じく会館にいた若手棋士2人とともに新宿のステーキ屋に出向いた。

店で席に着くと、米長は若手棋士が将棋新聞(週刊将棋)を持っているのに目を留めた。その見出しに「米長1勝4敗、降級赤ランプ」とデカデカと書かれている。当時は今よりそういうのに遠慮がなかったのだろう。

「これは本当のことかね?」と米長は独り言のように尋ねた。河口は仕方なく「その星じゃあね」と正直に答えた。

すると米長は、数十分ワイングラスを手にして紙面を見つめたままでステーキに手を付けず、「みんな楽しんでるな」と言って店を出た。その後、休みと分かっているバーに何度も行こうとしたりして、河口は「正直、米長は頭がおかしくなったかと思った」とその夜のことを述懐している。

将棋や囲碁の世界には、「負けて強くなれ」といった言い回しがある。河口俊彦は、それをウソと断じる。棋士は勝てば勝つほど強くなるもので、負けて強くなることはない。強い人は勝つことしか知らないからこそ、負けたときの屈辱感が我々常人には計り知れないほど強く、だから一層頑張り、より勝てるようになるという。

少し前に、NHK杯深浦康市九段に完敗した藤井聡太三冠(その後四冠)が机に突っ伏しうなだれる様子が話題になったが、それを見ると河口俊彦の説も分かる気がする。彼は、米長邦雄という将棋史に残る天才が、人生の悪い流れで負け続けてしまったときの有り様を書いたのだ。

話を現在に戻そう。

羽生善治九段は、史上最強の棋士である。そして、そのように書くときに、その彼と同時代人であることをワタシは誇らしくすら感じる。その羽生善治が絶対強者な時代をあまりに長く過ごしてきたため、その彼が降級の危機にあるのが受け入れがたいというのが正直な気持ちだ。

ワタシのような凡人が史上最強の棋士の胸中を想像するなどおこがましいのだけど、羽生善治九段はまだまだやれると思っているはずだし、闘志を失っていないだろう。もはや最強者ではないにしろ、活躍は十分に可能だとワタシは今でも思う。

さて、前述のような有り様だった米長邦雄はその後どうなったか。A級順位戦で有吉道夫九段との勝負で必敗の将棋をひっくり返して逆転勝ちしたことで立ち直り、以後は連戦連勝。棋聖戦を防衛、名将戦で谷川浩司九段を破り優勝、十段戦でもフルセットの末中原誠を破り防衛を果たした。順位戦は1勝4敗の後に5連勝で、加藤一二三九段や大山康晴十五世名人が後半戦で星を落としたため、降級どころか挑戦者のプレーオフまで進んだ。

note.com

そのプレーオフで誰が勝ったかは、ワタシが解説を書いた河口俊彦大山康晴の晩節』を読んでいただきたいところだけど(ネットで調べれば一発ですが)、その後タイトルをすべて失うも50歳名人位を達成した米長邦雄永世棋聖、そして、60代後半にしてより深刻な状況からのA級残留を続けた大山康晴十五世名人の偉大さを思う。

羽生善治九段にもA級順位戦後半戦の巻き返し、そしてタイトル獲得100期の達成を心から願う。

リスペクト

生前のアレサ・フランクリン(アリーサ・フランクリン)が、伝記映画で自身をハル・ベリーが演じるのを希望しているという話を何かで読み、それはないだろうと思ったものだが、その死後、ジェニファー・ハドソン主演で映画が作られると聞き、『ドリームガールズ』での歌が見事だった彼女ならいけるのではと期待を持った。

しかし、予想通りジェニファー・ハドソンの歌は見事だが、伝記映画としては凡庸という評を耳にし、なんかもっさりした映画をみせられそうで気持ちが萎えかけた。ただ、いつまた映画館に足を運べなくなるか分かったものではないし、近場のシネコンで観たい映画が他になかったので、当初の予定通り本作を観に行った。

なんだよ、面白いじゃないの。

今年のロックの殿堂のセレモニーにおいて、個人として殿堂入りを果たしたキャロル・キングが、女性シンガーとして初めて殿堂入りしたアレサ・フランクリンの功績を称えていたが、彼女は言うまでもなく「ソウルの女王」であり、一方で波乱続きの人生を送った人で、何より著名な牧師の娘に生まれながら、10代で2人も子供を産み、未婚の母となっているなど、エグく描ける要素がある人でもある。

「百万ドルの声」をもつ男と呼ばれ、アレサの歌手としてのキャリアを後押ししながらも強権的で抑圧的な父親、やはり横暴だった彼女の夫にしてマネージャーのテッド・ホワイトなど、アレサの人生を巡る問題となる男性がそのように描かれるのは避けられない。

古くはビリー・ホリデイもそうだし、今年ようやく Netflix で観たニーナ・シモンの伝記映画もそうだったし、近年ではエイミー・ワインハウスも浮かぶが、どうして素晴らしい女性シンガーは、暴力的だったりヤク中だったり抑圧的だったりする、彼女たちのキャリアの問題となるような男性ばかりに惹かれるのだろうかと思ってしまう。しかし、本作の場合、アレサの被害者性を強調するものでなく、彼女の強さを打ち出しているところが後味をよくしている。

本作では「貴方だけを愛して」や「リスペクト」といった彼女の代表曲ができる過程を描きながら、町山智浩さんが解説している通り、そうしたろくでもない男性とのラブソングが夫のテッド・ホワイトに向けたものであり、一方で(前述のキャロル・キングの曲である)「ナチュラル・ウーマン」のような崇高さを感じる曲が歌う対象が神であるという見立てがうまく働いている。

本作は冒頭はじめ、何度かあるパーティの場面がなかなかに情報量が多く、逆に言うとブルース、R&B、ソウルの歴史に詳しくない人が見てもピンとこないかもしれない。そうしたパーティの場面にスモーキー・ロビンソンがいたが、そういえばアレサはデトロイト育ちだったんだね。父親が有力者すぎたからありえない話だが、彼女がモータウンからデビューしていたら、ソウルミュージックの歴史はどう変わっただろう。

本作を観る前にピーター・バラカン『魂(ソウル)のゆくえ』を読んでおくと、実力がありながら音楽的な焦点が定まらず中途半端だった彼女が、飛躍を果たすマッスル・ショールズでのレコーディングにおけるフェイム・スタジオのリック・ホールの癇癪持ちの頑固者ぶり、そして彼女が預けられるアトランティックのジェリー・ウェクスラーのねちっこいユダヤ人ビジネスマンぶりの描写がなかなか笑える。

本作はテッド・ホワイトとの離婚後、アルコール依存の問題を抱えながら、ゴスペルライブアルバム『Amazing Grace』で再起を果たすところで終わる。そうして終わってみれば、本作はデビューから10年程度しかカバーしていないのに思い当たる。個人的には、1971年のフィルモア・ウェストでのライブも入れてほしかったし、もう少し後、『ブルース・ブラザーズ』の時代あたりまでカバーしてほしかったが、そうするとアレサの人気低迷も描くことになり、映画として間違いなく後半退屈さを増すだろうから、これくらいで良いのかもしれない。

本作は2時間半近くの上映時間だが、上記の通り、名曲が生まれる過程をしっかり描いていて、本作はミュージカル映画ではないが、ジェニファー・ハドソンが歌っている時間がかなり長く、それだけに尿意を忘れる出来だった。

このようにジェニファー・ハドソンのパフォーマンスを称えたいのだけど、本作のエンドロールでアレサ本人による「ナチュラル・ウーマン」の映像が流れると、それがたとえ彼女の晩年のものであってもやはり凄いものがあり、少し残酷に思えた。

佐渡秀治さんの渾身の退職エントリ「日米OSDN離合集散、苦闘の21年史」の書籍化を希望する

shujisado.com

本当はブログの更新予定ではなかったのだが、感想を書くつもりの本を読み終わるのに思ったより時間がかかりそうなのと、何より佐渡秀治さんの渾身の退職エントリがすごかったので、予定を変更してこちらを取り上げておきたい。

ワタシが佐渡秀治さんのツイートに乗っかったのが、およそひと月前。

一昨日、佐渡さんに「書きましたよ」と言われてなんだと思ったら、冗談抜きで感動スペクタクル退職エントリであった。

ワタシの名前を引き合いに出していただいて嬉しかったのだが、いつの日か、日本のブログ史が書かれる場合、「退職エントリ」に一章割かれるとワタシは思うのだが、「全17章、特別コラム2本」という破格の量に加え、21年に及ぶ苦闘の歴史を凝縮した質、資料性の高さの意味でもこれは歴史に残るエントリに違いない。

このブログの読者で読んでない人はいないと思うのだが、もしや見逃していた人がいたら、これを機にご一読いただきたい。

時は1999年に始まり、その前年の1998年の Linux Conference の話が出てくるが、ワタシはそれが開催された Internet Week に参加しており、1999年2月にウェブサイトを立ち上げ、雑文書きを始めた。つまり、佐渡さんの「苦闘の21年史」は、yomoyomo としてのワタシのネット歴にぴったりと重なる。

もちろんネットへの貢献という点でワタシは佐渡さんの足元にも及ばないのだが、佐渡さんが VA Linux Systems Japan~OSDN Japan でなされた仕事は、ワタシも主に Slashdot Japan 改めスラドを中心にずっと触れてきたわけだ。

その点、佐渡さんが以前に書かれた米 VA Linux の崩壊シリーズに比べると身近なのだが、当たり前だが外から見ているだけでは分からないところが多く、実際その内実を把握していた佐渡さんの文章をもって、ようやく事情が掴めるところが多い。やはり(GitHub になれなかった)SourceForge の話がもっとも興味深い。

読んでいて浮かぶのは「薄氷」という言葉が相応しく、頻繁にトップ、体制、そして方針が変わる米国側との駆け引きの大変さに読んでいて、こちらが頭を抱えたくなるくらいだが、日本側で一貫性を持たせてきた佐渡さんの仕事はとても重いものがある。

自分の側に話を引き寄せるなら、ワタシは『情報共有の未来』『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』という二冊の電子書籍を発表したが、連載名はずっと「情報共有の未来」だった。

情報共有について書くとき、それは例えばブログであったり Wiki であったりのツールの話である場合もあるが、その土台にあったのはフリーソフトウェアオープンソースであった。そうした意味でこの文章を読み、日本におけるオープンソースのエコシステムを支え続けた(ご本人の表現を借りれば「様々な尻拭いを続けてきた」)佐渡秀治さんに改めて深い感謝の念が湧く。

今後は、Chris DiBona(彼が編者を務めた『Open Sources 2.0』は結局邦訳出なかったねぇ……)という懐かしい名前、そして Slashdot.org の創業者の一人 Jeff Bates らと仕事をされるとのことで、上で引用したツイートによると「さらにオープンソースにコミットする役割に就いていますので、社長時代よりは外に出てくる機会が多くなるかも」とのことで、今後のご活躍に期待します!

そして……今回の退職エントリ、そして米 VA Linux の崩壊シリーズを組み合わせて書籍化してほしいなとやはり思うのだ。それが実現すれば、オープンソースの歴史におけるとても重要で貴重な本になるはずだ。名乗りを上げる出版社はないものか……達人出版会の高橋さん、いかがですか?

ウィキメディア財団が企業向けにウィキペディアのコンテンツの再利用のためのAPIを手がけるWikimedia Enterpriseを立ちあげ

wikimediafoundation.org

なぜかまったく話題になっていないので取り上げておきたい。ウィキメディア財団が企業や団体向けにウィキペディアウィキメディアのプロジェクトのコンテンツを容易に再利用できるようにする製品を手がける Wikimedia Enterprise を立ち上げている。

enterprise.wikimedia.com

さて、その「製品」とは何かということなのだけど、それこのサイトにもあるように要は Modern REST APIs で、これは急に出てきた話ではなく、今年の3月に報じられている。

gigazine.net

それからおよそ半年で本格始動とのことだろう。企業によるウィキペディアなどウィキメディア財団が管理するコンテンツの有料利用が進み、この事業が軌道に乗れば、ウィキペディア利用者への寄付依頼のスペースが少しは小さくなるかもしれないので、是非これは成功してほしいところだ。

データプラットフォームとしてのウィキペディアというとワタシも何か書いていたような……と記憶を辿ったら10年前(!)に「Wikipediaがプラットフォームになるのを妨げているもの」という文章を書いていた。

エドワード・スノーデンのニュースレターで艾未未(アイ・ウェイウェイ)の新刊『喜びと悲しみの千年』を知る

edwardsnowden.substack.com

エドワード・スノーデンのニュースレターなのだけど、人民服を着て習近平の本を抱くマーク・ザッカーバーグの画にまず笑ってしまった。それでタイトルが Cultural Revolutions(文化大革命の複数形?)とくれば、これは Facebook あらため「俺ら民主主義の癌で、権威主義体制を強化して、市民社会を破壊するグローバルな監視プロパガンダマシンに移行しやす……利益のためにな!」でおなじみ Meta さんへの壮大な皮肉か! と思ったらそうではなかった(ワタシも Facebook の改名やメタバース周りについては準備しているが、エントリ書けるかねぇ)。

エドワード・スノーデンが取り上げるのは、中国を代表する現代美術家艾未未(アイ・ウェイウェイ)回顧録 1000 Years of Joys and Sorrows で、ワタシも初めてこの本のことを知った。

彼については『アイ・ウェイウェイは謝らない』というドキュメンタリー映画も作られているが、中国当局と対立し、拘束されたり軟禁状態にも置かれた彼にエドワード・スノーデンがシンパシーを抱くのは理解できる。

この本の前半は、文化大革命の恐怖を前にして不屈の意思を持ち続けた(しかし、思想や表現の統制が生存を脅かすレベルに達したとき、自己批判同調圧力に屈して内心に反した行動をとる)艾未未の父親について書かれており、また中国の暴力的不寛容がいかにして急速に国策として常態化していったのかについてに価値ある記録だとスノーデンは読んでいる。

その上で、スノーデンは、イデオロギーの浄化が、全体主義体制の下だけではなく、形を変えて西欧の自由民主主義国家にも存在していることを艾未未が指摘していることを強調している。その意図は言うまでもない。艾未未が中国を理解しようとしているように、スノーデンもアメリカを理解しようとしている。それを画にしたら、「人民服を着て習近平の本を抱くマーク・ザッカーバーグ」ということになるのだろうか。

このエントリの副題である "Freedom is not a goal, but a direction." というフレーズは、艾未未の本の最後のページに出てくるようだ。

元素周期表と俳句の出会い「Elemental haiku」

vis.sciencemag.org

Boing Boing で知った Elemental haiku が面白い。

これ自体は2017年8月に Science のサイトで公開されたページだが、知らなかったねぇ。

元素周期表の各元素にマウスポインタを持っていくと、その元素に対応した俳句が表示される。つまりは、このページには119もの俳句が用意されてるわけですな。

ただそれだけと言ってしまえばそれまでなのだが、各元素に合わせた英語の俳句がなんとも言えない味わいがある。

これを俳句の本場日本でやったらどんな感じなんでしょうな……と思ったら、少しそういうのをやっている方もいますな。

monogatary.com

monogatary.com

この20年でもっとも過小評価されている映画20選

www.wired.com

この記事自体は2020年末に公開されたものだが、過小評価されている映画と言われると気になるということ、そして、ここに挙げられている映画を見事にワタシ自身観てなかったので取り上げておきたい。

各映画の評価については原文にあたっていただくとして、この記事には以下の20の映画が挙げられている。

日本未公開の作品もそこそこあるが、『バニラ・スカイ』のようなメジャー作、あとドゥニ・ヴィルヌーヴダーレン・アロノフスキーといった当代を代表する映画監督の作品、あるいはライアン・ゴスリングやマシュー・マコノヒーといった人気役者の主演作も入っているのに、ものの見事に一つも観ていない。

なので残念ながら(と書いていいか分からないが)、Rotten Tomatoes で批評家の評価は低いがワタシは好きな映画でここに入っているものはない。

『アナイアレイション』とか Netflix で観れたが、ちょっとグロそうで敬遠したんだよな。あと『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』のことを知ったときにブログに書いているが、やはり観ていない。

いかんねぇ、Netflix で観れる『バニラ・スカイ』くらいは観ておくかなぁ。

ネタ元は Boing Boing

デヴィッド・グレーバーの遺作を知り、ブレイディみかこさんに謝りたくなったのを思い出した

昨年9月に惜しくも亡くなったデヴィッド・グレーバーの新作 The Dawn of Everything(考古学者のデヴィッド・ウェングローとの共著)が出るのを、恥ずかしながらこれを読んで初めて知った。

早くもできている Wikipedia のページから辿った New York Times の記事によると、グレーバーの死の直前である2020年8月に完成させていたらしい。これが彼の遺作になるということか。

この書評を書いているのは、『優秀なる羊たち: 米国エリート教育の失敗に学ぶ』(asin:4385365784)の邦訳もあるウィリアム・デレズウィッツだが、彼によるデヴィッド・グレーバーの初対面の印象についての描写は鮮烈だ。

二人で昼食を取り始めて5分後、私は自分が天才を前にしていることに気づいた。ものすごく頭がいいのではなく、天才だ。そこには質的なちがいがある。テーブルを挟んでそこにいる人間は、私とは別の秩序世界に属しているかのようで、まるでもっと高い次元からの訪問者のようだった。そんなことはそれまで経験したことがなかった。

翻訳日記: 人類の歴史をもう一度書き直したら

さて、その遺作はどういう本なのだろうか。

『The Dawn of Everything』は、ホッブズとルソーが最初に展開し、その後の思想家たちが練り上げ、今日ではジャレド・ダイアモンド、ユヴァル・ノア・ハラリ、スティーブン・ピンカーらによって一般に普及し、多かれ少なかれ世界中で受け入れられている人類の社会史に関する従来の説明に対抗して書かれている。

翻訳日記: 人類の歴史をもう一度書き直したら

そしてこの物語は、グレーバーとウェングローによれば、完全にまちがっている。世界中で発見されている最新の豊かな考古学的発見や、軽視されがちな歴史的資料の深い読み込み(彼らの参考文献目録は63ページにも及ぶ)を駆使して、二人はこれまでの説明のあらゆる要素だけでなく、その前提条件となっている仮説をも解体している。

翻訳日記: 人類の歴史をもう一度書き直したら

詳しくはその先を読んでいただくとして、グレーバーらしい挑戦的な本なのは間違いないようだ。ただ著者二人の論説に対しては、進化人類学者のピーター・ターチンが既に詳細な批判を行っているので注意が必要である(その1その2)。

かなりの大著なので、邦訳が出るとしても3年くらい先だろうか。それはともかく、ワタシは以下のくだりを読んで、はっとさせられた。

「文明」にはそれだけの価値があるのか、と著者は問いかけている。文明は――それが古代エジプト、アステカ、帝政ローマ、国家の暴力によって強制される現代の官僚的資本主義体制などを指すのであれば――著者が考える私たちの3つの基本的な自由である「命令に従わない自由」「どこか別のところに行く自由」「新しい社会的取り決めを作る自由」を失うことを意味するのではないか? あるいは、文明とはむしろ「相互扶助、社会的協力、市民活動、ホスピタリティ、そして単純に他人を思いやること」を意味するのだろうか?

これらは、献身的なアナーキストであるグレーバーが(彼はアナーキーなのではなく、政府がなくても人々はうまくやっていけるというアナーキズムの提唱者だ)キャリアを通じて問いかけてきた問題だ。

翻訳日記: 人類の歴史をもう一度書き直したら

ここを読んで、ワタシはブレイディみかこさんのことを思い出した。

ブレイディみかこさんが『負債論』『ブルシット・ジョブ』といったグレーバーの仕事に大きな影響を受けているのは確かだが、それだけではない。

ベストセラー『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にワタシがあげた福砂屋の紙袋が登場していたのも今や昔というか、今年はブレイディみかこさんを普通にテレビで見かける機会も多かった。そして今年も彼女は何冊も本を出しているが、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』は特に印象的な仕事だった。

この本は、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で著者の意図をこえて注目された「エンパシー」をテーマにしている。このエンパシーについて、コグニティヴ(認知的)・エンパシー、エモーショナル(感情的)・エンパシーなど定説となっている分類はもちろんきちんと紹介されるが、それに対して副題にもある「アナーキック・エンパシー」を提唱しているのが著者らしい。

アナーキック、アナーキーといった単語自体は、『アナキズム・イン・ザ・UK -壊れた英国とパンク保育士奮闘記』といった書名に冠せられているものでなくても、ブレイディみかこさんの本に何度も登場しており、この副題に驚くことはなかった。

しかし、エンパシーの本であるとともに実はアナーキーアナキズムの本ともいえる『他者の靴を履く』を読むうちに、自分の中にあるこれらの言葉に対するイメージが、カオスであったり無秩序であったり暴力的であったり、要はこの言葉に出会ったロンドンパンクの(メディア上の)イメージあたりで止まったままのに気づいて愕然とし、なんという浅さだと自分を恥ずかしく思った。

ましてや自分はブレイディみかこさんの本を何冊も読んでおり、自立(自律)としてのアナーキーアナキズムについて認識を更新していてしかるべきはずなのに、実は内心のイメージは古色蒼然というか、単に的外れなままだったとは、今まで何を読んでいたのだ――と『他者の靴を履く』はワタシを密かに恥じ入らせ、反省を強いる本だった。

www.hayakawabooks.com

自立(自律)としてのアナキズムという話は、最近ではジェニー・オデル『何もしない』にも色濃くあり、伊藤聡さんがこの本を語る際にデヴィッド・グレーバーの名前を引き合いに出しているのも納得である。

そして、今回「献身的なアナーキストであるグレーバー」というフレーズを目にし、一度ブレイディみかこさんにメールで書こうと思いながら、恥ずかしくて出せなかった内容をここに書き残しておこうと思った次第である。

以下は余談。

「アナーキック・エンパシー」を提唱し、自分という主語を確立することの重要さを伝える『他者の靴を履く』だが、個人的にもっとも面白かったのは、マーガレット・サッチャーについて書かれる第4章「彼女にはエンパシーがなかった」だった。

ただこの章で、サッチャーについて「経済についてダーウィンの進化論のような考え方」「経済ダーウィニズム」という表現を用いているところは唯一不満というか、別にダーウィンの進化論は強者生存や優勝劣敗を説くものではないのに、と思ってしまった。もっとも、特に「経済ダーウィニズム」が人口に膾炙した表現であるのは理解しており、本書だけの話ではない。

そのあたりが特に気になったのは、単に『他者の靴を履く』を読む直前に吉川浩満『理不尽な進化 増補新版』を読んでいたから、そしてこれがとても良い本だったから、という個人的な事情に依るのだけど。

ジェフ・ベゾスの文章集『Invent & Wander』の邦訳が来月出るぞ

調べものをしていて、ジェフ・ベゾスが著者の本が来月出るのを知った。

ジェフ・ベゾスウォルター・アイザックソンという2人のビッグネームがクレジットされていて、本文執筆時点で Amazon のページでは二人とも「その他」扱いなのが謎だが、これはまず間違いなく ジェフ・ベゾスの文章集にウォルター・アイザックソンが序文を寄せた Invent and Wander: The Collected Writings of Jeff Bezos, With an Introduction by Walter Isaacson の邦訳ですね。

ジェフ・ベゾスは少し前に Amazon の CEO の座を降りているが、それまで超多忙だった彼が一冊本を書きおろせるわけはなく、既に発表済の文章、Amazon の株主宛てのレター、講演、インタビューなどを収録したもので、それを通して彼のビジネスに関する基本理念と哲学を伝える本である。

そういえば版元はダイヤモンド社だが、訳者の関美和さんはここから『13歳からの億万長者入門』翻訳を出したばかりで、何冊もすごいなぁと思ってしまう。

カート・ヴォネガットの伝記映画『Kurt Vonnegut: Unstuck in Time』が作られていた

カート・ヴォネガット亡くなったのは2007年だから、もう14年になる。彼の死後、本格的な評伝『人生なんて、そんなものさ』が出たが、彼のかなりダークな面も描かれており、一部の遺族から内容に異議が唱えられている(参考:荒野に向かって、吼えない…)。

彼の伝記映画って作られていないのかと思ったら、Kurt Vonnegut: Unstuck in Time というカート・ヴォネガットドキュメンタリー映画が作られているのを知る。

公式サイトによると、この映画の制作は以下のようにして始まったそうな。

1982年、ある若き映画製作者が、彼の文学上のアイドルに、彼の人生と業績についてのドキュメンタリーを提案する手紙を書いた。カート・ヴォネガットはすぐにロバート・ウェイドに会い、ドキュメンタリーの制作を許可した。ウェイドは必要な資金調達に数か月かかるが、映画はその年のうちに完成できるだろうと考えていた。それが33年前のことだった。

ロバート・ウェイドってどこかで名前を見たことがあったな……と記憶を辿ったら、「Directed by Robert B Weide」ミームの人か!

1982年に彼がヴォネガットに出した一通の手紙からドキュメンタリー映画の制作が始まったわけだが、それからおよそ40年近く、ヴォネガットの死からも14年経っての完成ということになる。ウェイドはヴォネガットと親交を深め、その友情自体も映画の重要な要素みたい(だが、個人的にはそのあたりに少し不安を感じる)。

このトレイラーにも出てくるが、Unstuck in Time とは彼の最高傑作『スローターハウス5』再映画化の話はその後進んでいるのだろうか?)で、主人公ビリー・ピルグリムについてまず宣言される一文からの引用ですね。

その出来が気になるが、この作品が日本の映画館で観れる日が来ればと思う。

ネタ元は kottke.org

『DUNE/デューン 砂の惑星』の脚本はMS-DOS上で執筆された

www.vice.com

日本での興行成績は物足りない感じだったものの、本国では無事にヒットしてパート2制作が正式決定した『DUNE/デューン 砂の惑星』だが、この話はちょっと驚いたね。

『DUNE/デューン 砂の惑星』の脚本を執筆したのは、『フォレスト・ガンプ/一期一会』や『ミュンヘン』『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』や『アリー/ スター誕生』で知られるエリック・ロスだが、MS-DOS 上で動く Movie Master という40ページ書けばメモリがいっぱいになるプログラムで書かれたそうな。

この2014年公開の動画の1:30あたり、正確には Windows XP マシンの DOS プロンプトから Movie Master 3.09 を起動してるのかな。このマシンはインターネットに接続されていないのだろうな。

この記事の最後にも触れられているが、MS-DOS を使って執筆というのは彼だけの話ではなく、ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の原作である『氷と炎の歌』シリーズをジョージ・R・R・マーティンが、やはり MS-DOS のプログラム WordStar で執筆したのは有名である。

ネタ元は Slashdot

BBCが選ぶ今世紀最高のテレビドラマ100選

www.bbc.com

kingink さんのツイートで知ったが、43か国の206人から集計した今世紀のテレビドラマのランキングである。

この100選の中でワタシが観たことがあるのは以下のあたり。

23本、うーん、少ないね。『ゲーム・オブ・スローンズ』はあまり楽しめないままシーズン2に入ったところで脱落したので入れてません。

観ているものについてはどれも見応えがあったので他の人にも文句なくおススメする。近年 Netflix を中心に観た作品はワタシが改めて何か書く必要は特にないと思うけど、アメリカのドラマシリーズを続けて観る契機となったという意味で、今では語る人も少ない『24』と『LOST』のワタシの中での大きさは書いておきたい。

あと『チェルノブイリ』と『ウォッチメン』は、昨年秋に近所のレンタル屋が閉店するのを知って(やはりコロナ禍のせいだろうか)、この二作だけは完走しようと慌てて借りまくって観た思い出がある。

やはりというべきかアメリカのドラマが圧倒的だけど、個人的にはオリジナルの『The Office』がトップ10に入っているところに英国らしさを感じた。

ドラマ本編が居心地の悪い笑いを押し通した挙句ものすごい虚ろさで終わり、その後のクリスマススペシャルで登場人物は皆まったく変わっていないのにまさかの感動のラストという奇跡的なドラマだった。

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