当ブログは YAMDAS Project の更新履歴ページです。2019年よりはてなブログに移転しました。

Twitter はてなアンテナに追加 Feedlyに登録 RSS

ローレンス・レッシグ教授のインタビューがしみじみ興味深い

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の中でもローレンス・レッシグ先生の名前は何度も引き合いに出しているし、というかインターネットの自由と民主主義について考える上でひとつの規範であると言ってもよい。

しかし、彼の議論は単純ではないし、後で彼の著書を読み直して、そうだったの? と思うこともある。そうした意味で、このインタビューは読みやすいけれど、その慎重さも出ているし、レッシグ先生がこういうことを語るのかとしみじみなるところがある。

こうした力学では、ユーザーが好む情報だけが掲示されます。すると二極化が激しくなり、集団の共通理解がなくなり、民主主義を成立させるための対話ができなくなってしまいます。このようにして監視技術は民主主義の脅威となり得ます。これはインターネット技術そのものによる問題ではなく、広告のビジネスモデルに起因する問題です。監視社会であることが、ビジネスモデルを前進させる仕掛けになってしまっているのです。民主主義に害をもたらす、重要な課題だと考えます。

MIT Tech Review: ローレンス・レッシグに聞く、データ駆動型社会のプライバシー規制

インターネットのプラットフォーマー和製英語)のビジネスモデルが民主主義の脅威になっているという(現在広く共有されている)認識だが、そこでそれは広告のビジネスモデルに起因する問題であり、インターネット技術そのものの問題ではないときちんと言うところがレッシグ先生らしい。

しかし今日では、些細な嘘をつかずに暮らせません。利用規約を読んだという嘘、そこに書いてあるということに同意したという小さな嘘を日常的につかなければやっていけません。ほんの小さな嘘かもしれませんが、ともすれば平気で嘘をつける世代を育ててしまっています。それは40年前、ソビエト連邦の人々が生き延びるために日常的に嘘をついていたのとよく似ています。文化が個人の誠実さを浸食してしまうというのは大問題です。このことだけを取っても、サービス規約やアクセスの規制手段として同意という基盤を続けるのを断念する十分な理由になると思います。

MIT Tech Review: ローレンス・レッシグに聞く、データ駆動型社会のプライバシー規制

これを読んで、話の内容はまったく違うはずなのだが、ワタシはブルース・シュナイアーの「プライバシーの不変の価値」を思い出した。「文化が個人の誠実さを浸食してしまう」こと、そしてそれにより形骸化するものがいかに害になるか。

いかにしてユーザーの同意をより良いものにしていくかを目指すというのは間違った戦略です。同意を根拠としてプライバシーを取り締まるべきではありません。なぜならユーザーはデータがどう使われるか実際には理解できず、またその判断のために時間を割く余裕もないからです。ユーザー側でさまざまな意思表示をできるように気の利いた技法を目指す取り組みは、どれも無駄な努力に終わるでしょう。

MIT Tech Review: ローレンス・レッシグに聞く、データ駆動型社会のプライバシー規制

レッシグ先生は欧州の GDPR に代表される「個人データの主権を市民に委ねようとする新しい仕組みづくり」についても安易に賞賛はしない。「インテンション・エコノミー」が実現すればそれは素晴らしいのだけど、この下に引用する発言にあるようにそれは難しいし、実際ドク・サールズが本で紹介している取り組みには、結局失敗に終わったものが少なからずあるわけで。

これらの戦略は、人々に自由意志を行使する力を与えようと見せかけていますが、実際には誰の意思も表さないことがわかっています。なぜなら人々は選択するために必要な知識を持ち合わせていないからです。みな暮らしの中でやることは山ほどあり、実際には選択する立場でいられないのならば、それは本当の選択ではありません。

MIT Tech Review: ローレンス・レッシグに聞く、データ駆動型社会のプライバシー規制

これだけ読むとレッシグ先生も人間を見る目が暗くなったと思う人もいるかもしれないが、水野祐さんが指摘するように「行動経済学的な知見の影響」とみるのが妥当なんでしょうか。

この後はレッシグ先生がこの10年取り組んできた(アメリカの)政治腐敗に関わる制度的な問題に絡んだ話になるが、思えば今年彼の本が2冊も出るわけで、マイケル・サンデルロジャー・マクナミーティム・ウーショシャナ・ズボフ(もっともレッシグ先生は、彼女が提唱する「監視資本主義」のコンセプトに批判的みたいだが)といった錚々たる面々が推薦の言葉を寄せる『They Don't Represent Us: Reclaiming Our Democracy』のほうは邦訳が出ないといかんのではないかと思うわけである。どこか版権取得に動いてないんですかね。

They Don't Represent Us: Reclaiming Our Democracy

They Don't Represent Us: Reclaiming Our Democracy

They Don't Represent Us: Reclaiming Our Democracy (English Edition)

They Don't Represent Us: Reclaiming Our Democracy (English Edition)

メイカームーブメントの火を絶やさないためにも、あらためてオライリー・ジャパンを称えたい

先月「Maker Mediaの操業停止とメイカームーブメントのこれから」というエントリを書いているが、Maker Media の後継となる会社 Make Community の立ち上げ、でも状況は楽観を許さないというステートメントが出ている。ワタシとしては、とにかくメイカームーブメントの火が消えないことを願うばかりである。

今週末 Maker Faire Tokyo 2019 が開催される。残念ながら地方在住のワタシは今回も多分参加できないが、オライリーの人たちはその成功のために粉骨砕身しているだろう。

オライリー・ジャパンが偉いのは、近刊でも『メイカーとスタートアップのための量産入門』のようなハードウェアスタートアップバブルに浮かれない地に足のついた本、『世界チャンピオンの紙飛行機ブック』のようなよくこんなヘンな本に目をつけたなと言いたくなる(失礼)本など、ずっとメイカー的本を出し続け、メイカームーブメントの火が消さない努力をたゆまなく続けているところである。

ソフトウェアエンジニアでオライリーの本のお世話になったことのない人はいないから、オライリーの偉大さは自明なことだと思ってしまうのだけど、Maker Faire のような大変な労力を要するイベントを続けていること、そしてその下支えもしていることは改めて称えられてよいのではないだろうか。

世界チャンピオンの紙飛行機ブック (Make: Japan Books)

世界チャンピオンの紙飛行機ブック (Make: Japan Books)

インターネットは書くことをより良いものにしている?

メディアが言葉に影響を与えるのは不思議なことではない。インターネットも言葉を変えるところはあるだろう。でも、それはどちらかという悪い影響として語られることが多かった。

それに対して、「インターネット言語学者」を自称するグレッチェン・マカロック(Gretchen McCulloch)の初の著書『Because Internet: Understanding the New Rules of Language』は、インターネットは我々の言葉をかつてないスピードで、しかも興味深い形で変えつつあると説く本である。

ワタシはこの著者のことを Wired に掲載された「デジタル時代の子どもたちは、絵文字からも「言語」を学ぶ」で知ったが、それこそ絵文字を含めた、インターネット上で使われる informal language の研究家である。

そして、著者はその informal language を formal language より劣るものとみなしていないのだが、それは彼女が新刊を告知するツイートでも明らかである。

おいおい(笑)。案の定ネタ元である Slashdot では、「んなわけねーだろ」的意見も多いが、コリィ・ドクトロウも賛辞を寄せている

彼も書くように informal language の研究は難しい。問題はここでの informal language とはすなわち informal English なわけで、必然的にネットスラングやら略語が多用される本の邦訳は難しいのかもしれないね。

果たしてこの著者の議論を日本語圏のインターネットに当てはめた場合はどうだろうか?

Because Internet: Understanding the New Rules of Language

Because Internet: Understanding the New Rules of Language

Because Internet: Understanding the New Rules of Language (English Edition)

Because Internet: Understanding the New Rules of Language (English Edition)

梶谷懐さんの共著新刊『幸福な監視国家・中国』が楽しみだ

梶谷懐さんのニューズウィーク日本版連載「中国の「監視社会化」を考える」は毎回楽しみの読ませてもらったが、KINBRICKS NOW の仕事でも知られる高口康太さんとの共作という形で来月書籍化される。

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

中国の監視社会については、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』最終版にも収録した「付録A インターネット、プラットフォーマー、政府、ネット原住民」の最初のほうでも触れたが(正確にはそれへの安易な憧れについて)、21世紀の情報社会を考える上でこのトピックは避けられない。

これについて、一方的な中国礼賛は論外としても、また一方で単純な監視社会批判だけにも終始せず、監視社会化する中国の何がうまくいっていて、何が問題なのか日本語で知るには梶谷懐さんの仕事が最適だろう。これは買いでしょう。

IndieWireが選ぶ2010年代の名作映画100本

えーっ、もう2010年代が回顧されてしまうのかと思ったが、思えば2010年代もあとおよそ5か月で終わっちゃうんだよな。今年後半すごい映画が公開されるかもしれず、こういう企画はそれを待ってやればいいと思うのだが、IndieWire が先鞭をつけた形である。

ベスト100の中でワタシが観たことある映画は以下の通り。半分くらいは観てるかなと思ったら、29本でした(抜けがなければ)。

この手のランキングって、何をどう選ぼうが文句が出るものだが、IndieWire なのでかなりアート系の作品が多いと思ったら、『フォールアウト』のような傑出しているとはいいがたいハリウッド大作が入ってたりして、ちょっと謎だったりする。

クリストファー・ノーランリチャード・リンクレイターポール・トーマス・アンダーソンといった人の映画が複数入っている一方で、クエンティン・タランティーノの映画が一本も入ってないとか、いろいろ文句をつけたいポイントも人それぞれあるだろう。

ランキングに入った日本映画はだいたい観ていたが、あと濱口竜介の『ハッピーアワー』が94位に入っている。失礼ながら、『風立ちぬ』の27位は過大評価だと思います。

さて、皆さんは何本観てますか?

ネタ元は kottke.org

『クロサカタツヤのネオ・ビジネス・マイニング』第67回がウェブ公開されている

サイゾー2019年8月号の『クロサカタツヤのネオ・ビジネス・マイニング』第67回になぜかワタシが登場している話は先日お伝えした通りだが、そのウェブ版が公開されている。

この対談が実現したいきさつなどについては先日書いたので、今回は対談内容について補足させていただく。

対談でまずワタシの大学時代について話しているが、それについては昔本サイトで文章に書いているのだが、正直なところ、ウェブサイト開設から5年以内に書かれた文章は、今のワタシはすべてゴミ以外の何物でもないので、あえてリンクはしないでおく。

次に Yahoo! JAPAN の名前を出しているのは、要は Yahoo! JAPAN のサービス開始が、ワタシが就職して社会人になったのと同じ1996年4月1日ということである。

クロサカタツヤさんの「ネットでしか生きていけない人々」に触発された書かれたのは、言うまでもなく WirelessWire News 連載最終回「ネットにしか居場所がないということ(前編後編)」のことである。

あとクロサカさんの発言の中にある「殺人事件」というのは、想像はつくと思うが、Hagex さんの事件が念頭にあったものである。

次にワタシが「インターネットは暗い森」になりつつあるという話をしているが、これは少し前にブログに書いた「劉慈欣の話題の『三体』と「暗い森」になりつつあるインターネット」を参照ください。雑誌では対談で名前が出てこない劉慈欣の写真が載っているのはご愛敬。

ワタシは「クロサカさんがツイッターをやめた時、ある連載で恨み言を書きました」と言っているが、これについては「個人ブログ回帰と「大きなインターネット」への忌避感、もしくは、まだTwitterで消耗してるの?」を参照いただきたい。正確には「恨み言」より冷ややかな感じだが、あとになってクロサカさんは自分よりもいろいろ見えていたんだなと思ったりした(が、まだ自分は止めるまでふんぎりがつかない)というのが正直なところ。

そしてワタシは唐突に「監視資本主義」という言葉を使っているが、これはハーバードビジネススクールのショシャナ・ズボフ名誉教授の新刊に由来するのは言うまでもない。

またそれに続けて、「フェイスブックが無料で利用できるのは、フェイスブック社がユーザーを売り物にしてもうけているからだ」という言説に対する Facebook 社員の反論を引き合いに出しているが、これは Joey Tyson の「あなたは商品ではない」のことである。

まぁ、サイゾーを読んで『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』に興味を持ってくれる人が何人いるか分からないけれども、できることは一通りやったのではないか。

Facebookが解体されるべき理由をティム・ウー教授が改めて解説する

この記事、ワタシが見落としたのでなければ WIRED.jp には日本語訳が出ていないはずである。アントニオ・ガルシア・マルティネスの「それでもフェイスブックを「解体」すべきと考える理由」があるのでこっちはもういいという判断かな。

アントニオ・ガルシア・マルティネスの文章でも冒頭に取り上げられている、Facebook の共同創業者でもあるクリス・ヒューズのフェイスブック分割をよびかける論説New York Times に掲載され、Facebook のタコ殴り状態度合いが高まったように思う。

Facebook は、イギリスの前副首相でもあるニック・クレッグをコミュニケーション担当副社長に担ぎ出すまでして分割論に反論しているが、その根拠は以下の4つに集約される。

  1. Facebook を解体すると、たくさんの小企業がプライバシーよりも成長を優先して競争することになる
  2. Facebook を解体すると、ユーザがソーシャルメディアに投稿する不適切なコンテンツを監視する3万人を雇うお金がなくなる(もっともその当事者たちからは、安月給と精神を病む劣悪な労働環境を告発されているのだが)
  3. Facebook を解体すると、中国のテック企業が世界の覇権を握る(参考:WIRED.jpTechCrunch Japan
  4. Facebook による WhatsApp や Instagram といった企業の買収は、非競争的行為ではなかった。

これに対して、クリス・ヒューズも引き合いに出すなど、Facebook 解体論の根拠となる新刊を出したティム・ウーが、上記の根拠をばっさり斬っている。

以下の箇条書きはおおざっぱな意訳なので、詳しくは原文をあたってくだされ。

  • 大統領選挙のときにロシアの介入を許したプライバシー侵害の常習者が、今さら偉そうなこと言う資格があるか。それに権力が集中する中央集権型のシステムは危険である。
  • もっとも非中央集権的でイノベーティブだったテクノロジー分野が、競争や生態系への信頼が失われ、Facebook に買収されたくてスタートアップを立ち上げるような場所になったのは嘆かわしい。
  • 70年代、80年代の日本企業の台頭は著しかったが、日本政府は企業に独占禁止法を適用しなかった(で、90年代以降は……)。一方当時のアメリカ政府は AT&TIBM にたがをかけたが、それが次代のソフトウェア産業の隆盛につながった。
  • マーク・ザッカーバーグのメールを見れば、Instagram を買収したのは競争相手として脅威を覚えたからなのは明らか。

このティム・ウーとドナルド・トランプの支持者が FacebookGoogle の分割論で意見が一致してしまった話が最近あったが、2020年の大統領選挙を控え、民主共和両党とも GAFA 規制のトーンを強めているのは間違いない。そうした意味で、ティム・ウーの本は邦訳が出てほしいところなんだがねぇ。

ネタ元は Boing Boing

The Curse of Bigness: Antitrust in the New Gilded Age

The Curse of Bigness: Antitrust in the New Gilded Age

オブジェクト指向プログラミングは1兆ドル規模の大失敗なのか?

えーっと、長すぎて、ワタシも全部は読み通せていません。

文章の趣旨はインパクトが強いタイトルの通りで、オブジェクト指向プログラミングは1兆ドル規模の災厄であり、もうオブジェクト指向プログラミング(OOP)の先に進むべき時だよ、ということである。

著者は OOP 批判がセンシティブな話題であること、多くの読者を敵に回すであろうことを認めた上で、OOP はその発明者であるアラン・ケイが思い描いたように実装されればよかったと考えている。で、返す刀で現実の JavaC#OOP へのアプローチを批判する。

OOP が素の手続き型プログラミングよりも優れているという客観的、公平なエビデンスは存在しないと著者は断言している。

ところどころで「JavaMS-DOS 以来コンピューティング分野に生まれたもっとも悲惨な存在だ」というアラン・ケイの言葉や、「C++ はおぞましい言語だ。だからプロジェクトで使う言語を C に限定するのは、あのバカな「オブジェクト・モデル」のクソで台無しにしないためなんだよ」というリーナス・トーバルズの言葉を引用しながら、ビシバシ OOP を批判しているが、果たして彼の主張にどれだけ妥当性があるかは原文をあたってくだされ。

しかしねぇ、例えばワタシが愛する C 言語の後に作られ、現在まで生き残るモダンでメジャーな(つまり用途がはじめから限定されない)プログラミング言語で、逆にオブジェクト指向に背を向けたプログラミング言語ってどれがあんのかねとも思うのだよ。

ネタ元は Slashdot

オブジェクト指向入門 第2版 原則・コンセプト (IT Architect’Archive クラシックモダン・コンピューティング)

オブジェクト指向入門 第2版 原則・コンセプト (IT Architect’Archive クラシックモダン・コンピューティング)

[2019年7月24日追記]日本語訳が公開されている。

ボブ・ロスが「ボブの絵画教室」で書いた絵は今どこにあるのか?

プレゼンターのボブ・ロスがインターネットが一般的になる前に死去したにも関わらず、テレビ番組「ボブの絵画教室」はインターネット時代も愛されており、何年かに一度動画サイトでバイラル化する。そういえば少し前に「ボブの絵画教室」の絵をマインクラフトで再現してしまった猛者が話題になったっけ。ワタシも2006年に「ボブの絵画教室」のゲーム化を取り上げている

しかし、ここで一つ疑問が浮かぶ。ボブ・ロスが「ボブの絵画教室」で書いた絵は今どこにあるのだろうか?

考えてみれば、ボブ・ロスの絵がどこかの美術館に展示されているなんて話は聞いたことがない。それを解き明かす New York Times の記事だが、お時間がある方はその動画版を見られるのがよいだろう。ボブ・ロス愛されてるね。

彼の絵は(言われてみればそうだろうが)彼の会社に収蔵されており、売却の予定はないとのこと。一部はスミソニアン国立アメリカ歴史博物館に寄贈されてるそうな。

ワタシのネタ元である Boing Boing のエントリ日本語訳も参考まで。

ボブ・ロス THE JOY OF PAINTING2 DVD-BOX

ボブ・ロス THE JOY OF PAINTING2 DVD-BOX

単行本が出て37年のときを経て初めて小島信夫『別れる理由』が文庫化されるという文学的事件(事故?)【追記あり】

小島信夫といえば、第三の新人に分類され(ただ年代的には、その分類の代表的作家よりも年長)、『アメリカン・スクール』で芥川賞、『抱擁家族』で谷崎賞を受賞し……と紹介される高名な作家である。ワタシも『抱擁家族』が好きで、講談社文芸文庫編「戦後短篇小説再発見〈10〉表現の冒険」の読書記録で彼について少し書いている。

その彼が野間文芸賞日本芸術院賞を受賞した代表作のひとつ『別れる理由』が初めて文庫化される。単行本のときと同じく三分冊である。

今回の文庫化とともに電子化もされるようだ。

本文執筆時点で(1)だけだが、いずれ残る2冊分の電子版も出るのだろう。電子版はひとつにまとめて出したほうがよいと思うが、『別れる理由』という小説の性質を考えると仕方ないかなとも思う(後述)。いずれにしても、おおげさに書けば、これは一種の文学的事件ではないだろうか。

まず、上記のように高名な小説家の代表作が、単行本が出て37年のときを経て初めて文庫化されたというのが、事情を知らない人からすれば奇怪だろう。

小島信夫は、晩年には日本芸術院会員になり、文化功労者にも選ばれたが、80歳を過ぎて『うるわしき日々』で読売文学賞を受賞するなど、生涯現役を通した人である。それなのに代表作『別れる理由』はこれまで文庫化されなかった。

『別れる理由』は長年文芸誌「群像」に連載され、講談社から1982年に単行本化されている。講談社は1980年代末に、純文学系の作品を対象とする講談社文芸文庫を立ち上げている。「純文学系」ということは、要はあまり売れなくても出すという意味であり、しかも絶版は出さないというポリシーがあったはず(これはもう守れていないと思うが)。

しかも、その講談社文芸文庫から小島信夫の本は(代表作『抱擁家族』、『うるわしき日々』を含め)何冊も出ている。つまり、おぜん立ては完全に整っていたのに、『別れる理由』は頑なに(?)文庫化されなかった。なぜか?

当たり前だがワタシも特に事情を知るわけはないのだが、大きな理由として、『別れる理由』という小説の規格外のヘンテコさがある。日本芸術院賞の受賞パーティーにおいて、当時内閣政務次官だった森喜朗が、「(この作品を)ぼくは認めないよ」と著者に冗談めかして言った話は知られるが、『別れる理由』のヘンテコさについては、「小島信夫長篇集成」シリーズで再刊された際に、千野帽子さんが「TV版「エヴァ」か江口寿史「POCKY」か。世紀のデタラメ、文学的大事故『別れる理由』復活」という文章を書いているので、そちらをご一読いただきたい。

『別れる理由』の大枠の筋だけ読めば、なるほど『抱擁家族』の続きにあたるものかと納得しかけるのだが、実際の中身はそんなレベルにおさまっていない。

千野帽子さんは「ゲラすらチェックしてないのではないかと言われる「戦略的ずさんさ」」「コンテンツ事故」と書いているが、坪内祐三の丸ごとこの本を扱った『「別れる理由」が気になって』の帯にも「天下の奇書か!」とある。相当なものである。

そうした意味で、今回電子書籍版も三分冊というのは分かる気がする。この小説は、後半に行くほど「コンテンツ事故」の混迷の度合いを増していくからだ。

小島信夫は当時『私の作家遍歴』(日本文学大賞受賞)と『別れる理由』の両方を連載していて、『私の作家遍歴』はいろいろ資料を調べる必要があって執筆に時間を取られて大変だったが、『別れる理由』のほうはさっさと書き飛ばしたという趣旨のことを語るのを読んだ覚えがある。が、小島信夫は本当にとぼけた人なので、この話だってどこまで本気にしてよいか分からない。

『別れる理由』はそういうわけのわからない小説であって、ワタシ自身現在までほぼ未読である。文庫版が出ないとなーと自分に言い訳した過去があるが、とうとう文庫になってしまった。この奇書を文庫化した小学館の編集者には敬服する。しかし……ワタシ絶対最後まで読み通せないと思うんだよなぁ。

最後に、筒井康隆の「実はおれも「ゲゲツ」した」(『笑犬樓よりの眺望』収録)から、小島信夫と講演旅行をした際の記述を引用しておく。1980年代末の話である。

 小島さんは「小説とは何をどう書いてもいいものである」というおれの主張を、おれなどよりずっと前から実践している作家で、いささか敬愛の念を抱いていた。別れる際、「では、またどこかで」と言うと、「いや、もう二度と会えないでしょう」と断言なさったので「さすがあ」などと思ったりしたものだ。

[2019年7月24日追記]:本エントリについて誤りを指摘いただいた。ありがとうございます。

現在予約可能なのが3冊だったので、てっきり単行本と同じ三分冊だと思い込んだのだが、全6巻でした! また飽くまでペーパーバックであり、一般の文庫本とは異なるとのこと。

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』が国立国会図書館オンラインに登録された

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』達人出版会高橋征義さんが国会図書館に納本くださった話は以前書いたが、無事に国立国会図書館オンラインに登録されている。ワオ!

国立国会図書館オンラインを yomoyomo で検索してみると、ワタシが著者や訳者でクレジットされた本で、国立国会図書館オンライン入りした本が、今回で5冊目であるのが分かる。

本当は他にもあるんだけど、細かいことはよい。これで最後になるはずだから。

ビジネスモデルのイノベーションは技術的イノベーションよりも破壊的ゆえに暗号資産ビジネスには期待できる?

ツイッター業物語』に登場する冷徹傲岸な投資家としておなじみフレッド・ウィルソンが、ビジネスモデルのイノベーションは技術的イノベーションよりも破壊的だという話を書いている。

ウィルソンが例として挙げるのは、ウェブからモバイルアプリへの移行と、デスクトップコンピュータからウェブへの移行の違いである。ウィルソンによると、前者は大方技術的なイノベーションだったという。確かにモバイルへの移行により新規参入する企業も生まれたが、ビジネスモデルにはほとんど変わりがなかったので、ネット大企業の市場における地位を強化するだけだった。

一方で、後者はソフトウェアライセンスを販売するモデルから広告モデルへの移行は、ビジネスモデルの変化を伴い、すこぶる破壊的だった。そしてその移行が、後のサブスクリプションフリーミアムモデルにもつながったという。

フレッド・ウィルソンが、分散型アプリ(decentralized apps)を採用する暗号資産をベースとするビジネスに興奮するのはこの点にあるという。つまり、まったく新しいビジネスモデルのイノベーションを実現するスタートアップがビッグプレイヤーになる可能性があるのではと見ているわけだ。

言われてみると、これは5年以上前に「2014年はビットコインの年になるか?(別にならんでいい)」で紹介した、クリス・ディクソンがビットコインに期待する理由にも通じるものがあるように思う。

仮に(自分が投資する)テクノロジー産業が金融サービス産業を変えようと思っても、既存の金融サービス企業の上では新しいサービスを作るというのはありえない。例えて言うなら、GoogleApple のプラットフォーム上でサービスを作ることで GoogleApple を打倒しようとするようなものだ。本当にインパクトを与え、大きなビジネスを生み出すには、既存の金融産業を完全に迂回して出し抜くサービスを作る必要がある。

2014年はビットコインの年になるか?(別にならんでいい) - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

でも、Bitcoin の一番エキサイティングな(しかも、危険をはらんでいるのは認めなければならない)ところは、「プログラム可能なお金」があらゆる面白く新しいビジネスや技術モデルを可能にするところだ。

2014年はビットコインの年になるか?(別にならんでいい) - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

だからこそフレッド・ウィルソンの USV は Facebook がぶちあげた仮想通貨 Libra を後援しているわけである。Libra が実現しなくても、大量のユーザがトークンをスマホに保持し、利用する未来が来ると確信していており、それを機にビジネスモデルのイノベーションの波が押し寄せるのが待ち遠しくてたまらん、とウィルソンは楽観的に予測している。

ビジネスモデルのイノベーションは技術的イノベーションよりも破壊的という考え方は、ブロックチェーン技術周りの仮想通貨、暗号資産を考える上で大事かもしれないね。

トークンエコノミービジネスの教科書

トークンエコノミービジネスの教科書

葛飾北斎の傑作「神奈川沖浪裏」が博物館、著作権、そして今日のオンラインコレクションについて教えてくれること

原題の「The Great Wave」とは、葛飾北斎の「富嶽三十六景」における神奈川沖浪裏のことだが、そういえば2年前に大英博物館に行ったとき、日本美術の展覧会を控えていたようで、広告に描かれていたのがこの神奈川沖浪裏で、やはり北斎の代表作というだけでなく、世界的に最も有名な日本美術作品の一つなんでしょうな。

言うまでもなく江戸時代の人物である葛飾北斎著作権はとうに切れており、彼の作品はパブリックドメインに入っているが、このエントリは神奈川沖浪裏の電子版を公開している14機関の二次利用条件を比較している。

もっとも条件が緩いのは言うまでもなくパブリックドメイン(CC0)で、シカゴ美術館などその条件を課している機関もあるが、日本の機関でもっとも条件が緩いのは東京国立博物館の CC BY-NC 相当で、東京富士美術館にいたっては堂々の all rights reserved 主張だったりする。

ダウンロードできる画像サイズも東京国立博物館はしょぼい部類に入り、東京富士美術館にいたっては公開なし。日本の美術館、博物館にはもう少し頑張ってほしいところだが、これは身勝手な期待なんだろうか。

他にも分析があるので、詳しくは原文をあたってくだされ。葛飾北斎の傑作を通して、パブリックドメインという人類の共通遺産について考えさせられる文章である。

ネタ元は Four short links

世界初の長回し・ワンカットPVかはともかく、マッシヴ・アタック「Unfinished Sympathy」は素晴らしい

このエントリを含む beipana というブログがワタシは好きで、力の入ったエントリが書かれるたびに毎度楽しく読ませてもらっている。少し前にこれまでを振り返るエントリが公開され、それを契機にワタシもこのブログの過去ログを再読する機会があったのだが、最初読んだときに気にならなかった疑問が頭をもたげた。

マッシヴ・アタック「Unfinished Sympathy」は、本当に世界初の長回し・ワンカット PV なのだろうか?

一発撮りというなら、この曲以前にも前例はあるはずである。例えば、ホルガー・シューカイの「Cool In The Pool」がそうである。ビデオの制作時期は知らないが、曲自体はおよそ40年前である。

いやいや、定点カメラの前でおっさんが百面相するようなビデオじゃなくて、カメラに動きがなくてはいけないと言われるかもしれない。それなら、ブルース・スプリングスティーンの「Brilliant Disguise」がある。1987年のこの一発撮りの PV は、カメラのズームが主だろうが、カメラ自体も寄りの動きをしているはずである。

いやいや、ただおっさんがスタジオ内で弾き語りするビデオじゃなくて、屋外撮影で映像にストーリーがないといけないと言われるかもしれない。それなら、ニール・ヤングの「Touch The Night」がある。監督は、キュアーのビデオの仕事で知られるティム・ポープである。これはすごいよ。

しかし、である。よく見ると、上の動画だとちょうど2:00にカット割りと思しき箇所がある。残念。

こういうとき便利なのが Wikipedia で、調べてみると案の定 List of one shot music videos というページがある。これを見ると、マッシヴ・アタック「Unfinished Sympathy」以前にもワンカット PV があるのが分かる……って、最古はボブ・ディランの「Subterranean Homesick Blues」なのか!

しかし、このリスト、やはり Wikipedia ということでうのみにできなところもある。このリストには、「一発撮りに見えるけどそうでないビデオ」のリストも付いているのだが(ピタゴラスイッチでおなじみ OK Go の「This Too Shall Pass」は、2:27 のカーテンが開くところでカット割りがあるのか!)、カイリー・ミノーグ「Come Into My World」R.E.M.「Imitation Of Life」など、いや、それ絶対違うから! というものまで入っているのに注意が必要である。

とはいえ、上に書いたような条件を課すなら、「Unfinished Sympathy」が多分もっとも古い部類に入るのは間違いない。

今回久しぶりに見直したが、本当に素晴らしいビデオである。一発撮りならではの緊張感が、この曲にふさわしい映像の高揚感につながっている。これが作られた背景については beipana のエントリを参照ください。

ただ、このエントリでは以下の箇所もひっかかった。

一発撮り/ロング・ショットは、ヒッチコックの『ロープ』、オーソン・ウェルズの『黒い罠』やロバート・アルトマンの『Absolute Beginners』などの映画で使われていたテクニックだけど、音楽のプロモーションビデオでは使われたことがなかったと思う。かなり難しい撮影だったけど、自分自身にチャレンジを与えるのが大好きなんだ。

世界初の長回し・ワンカットPV マッシヴ・アタックの『Unfinished Sympathy』は、どうやって生まれたか - beipana

これはバリー・ウォルシュ監督の発言だが、まず『Absolute Beginners』(邦題は『ビギナーズ』)は、ロバート・アルトマンではなくジュリアン・テンプルの作品である。原文をあたってみる。

It’s a technique that had been used in a few film scenes, Hitchcock’s Rope, that Orson Welles film with Marlene Dietrich [Touch Of Evil], Absolute Beginners and Robert Altman’s Shortcuts. But I don’t think it had been done in a pop promo before.

Scans→Uncut Magazine Feature — MASSIVEATTACK.IE

原文ではロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』と言っている。しかし、『ショート・カッツ』にそんな長回しはないはずで、これはアルトマンが『ショート・カッツ』の前に撮った『ザ・プレイヤー』におけるオープニング約8分の長回しと間違えたものと思われる。

なお、このオープニングにおいて、上に名前が出た長回しが有名な映画はほぼすべて題名が台詞で言及される。


Opening scene from The Player (1992) from Single Shot Film Festival on Vimeo.

以前観たときは、交通事故の後に郵便物が大写しになるあたりでカット割りが入っていたような気がするが、これを観るとそうでもなく、ちゃんと全体一発撮りなのかな。

公開から半年以上経ったブログエントリにいちゃもんをつけられたように思われたら申し訳ないのだが、beipana の文章はとても参考になるものばかりだし、マッシヴ・アタック「Unfinished Sympathy」のビデオが素晴らしいのは間違いない、というのを結論とさせてください。

Blue Lines

Blue Lines

ザ・プレイヤー [DVD]

ザ・プレイヤー [DVD]

トイ・ストーリー4

公開初日の金曜日にレイトショーで吹き替え版を観た。劇場に入るなり、立憲民主党公明党の CM をコンボで見る羽目になり、そういうのから離れたくて映画館に来てるんだけどなとも思ったが、時期が時期だけに仕方ないのだろう。

さて、『トイ・ストーリー3』があまりにも見事なシリーズ有終の美を飾る傑作だったので、本作製作の話を聞いたときは勘弁してくれやと思った。が、もしかしたら本作がランディ・ニューマンが手がける映画音楽を聴ける最後の機会になるかもしれない、と思い直した。

事情によりジョン・ラセターは放逐されてしまったが、ピクサーというブランドに対する高い信頼感があるし、本国でも大ヒットということでクソな続編ではないだろうという安心感があったが、本作もよくできていた。

『3』を超える作品かというと絶対それはないが、明らかにこれまでとは異なる質感のある作品である。存在意義自体どうなんだと思うところもあるが、主人公のウッディの子供への献身と忠誠がある種の狂信性を帯びてきて、それを貫けば大方の観客に引かれてしまうギリギリのところで提示される「子離れ」というコンセプトには、その手があったかと唸らされた。

思えば、第一作が公開されて20年以上になる。CG 技術やおもちゃの持ち主の子供たちだけでなく、ウッディも「成長」したんだな、と感慨深くなる。

そういえばピクサー映画というと、最初に短編が入るのが通例だったが、あれはもうなくなったのかな。

[YAMDAS Projectトップページ]


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
YAMDAS現更新履歴のテキストは、クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

Copyright (c) 2003-2023 yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)